私とランニングの出会いは、11歳の頃だった。初めて地元の3キロレースに参加して入賞した。そこで走る楽しさを体感した。中学に上がると剣道部に入部したが、校内マラソン大会で学年1位を取り、陸上部にも負けない姿を見せた。
そこで声をかけてくれた陸上部の恩師の誘いで、翌年2年生の秋、剣道部の先輩の引退を機に陸上部へと転身した。ちょうどその時期は期間限定の駅伝部が結成される頃で、校内選考会を経て駅伝選抜メンバーに加わることができた。
部活で知った、走る喜び。そして一人でも味わえた達成感。
駅伝部としての本格的な活動が始まり、“走る練習”をしていく中で、もちろん苦しいこともあったが、私はそれ以上に“仲間と走る喜び”を楽しんだ。
毎日どんなにハードなメニューでも、高い向上心と強い意志を持って取り組み、翌日の練習が楽しみで仕方なかった。
それから、高校では部活動には所属せず、趣味で走ることを続けて地元の大会にだけ参加するのが毎年恒例となっていった。中学からの陸上友達とも一緒に走る機会が減り、大会前を重点的に独り走り続けた。“仲間と味わう楽しみや充実感”が減ったものの、独りでも味わえる“達成感”を、走ることを通して楽しんだ。
大学生になると旅研究部に所属し、改めて“仲間と味わう楽しみ”ができた。20歳の夏には、総距離1,300kmにも及ぶ自転車での西日本横断の旅(大阪→角島→四国→大阪)に挑戦した。そのメンバーでも“走る人”は一人もおらず、走ることは黙々と独りで続けた。
またその秋には、人生初のフルマラソンに挑戦し、3時間31分で完走した。大会3ヶ月前から毎日必ず20キロ欠かさず走り続け、走ることを辞めたくなる暑い夏も乗り越えた。授業の合間や昼休みも活用して、毎日走り続けられたのは、一緒に走らなくても話題を振って応援してくれるクラスメートや部活仲間がいたおかげだ。まさにそれも、私にとって“仲間と味わう楽しみ”だった。
知り合いがいないアメリカで見つけた仲間
そして今、結婚を機にアメリカに引っ越して4ヶ月が経った。周りに知り合いがいない私にとって、地元のランニングクラブで出会った仲間が唯一の友達になった。
ボストンマラソン(性別・年齢ごとの完走タイムをクリアしないと申し込みすらできない、アメリカでは敷居の高い人気のレース)を走った人や、心臓病で6回手術してもなお走り続ける80代のおじいちゃん、ウルトラマラソン(100マイル)を完走した女性など、様々なバックグランドや経験を持つ素晴らしいランナーばかりだ。
グリーンカードの申請中で仕事を始められない今、このコミュニティーだけが私にとっての“全て“となったのだ。
ランナーのつながりは、国籍も年齢も性別も超えて
日常会話には苦労しないが、“100%伝えたいことを伝えきれない私”にとって、“走ること”が、彼らとのコミュニケーションツールの一つになったのだ。それは、国籍・年齢・性別に関係なく、一緒に走れば走るほど、一体感といい、仲間意識が生まれ、私のカラダの一部のように馴染んでいく。毎週のグループランニングや地元のレースで会うたびに、大家族のように仲間を励まし合い、一緒に走り続ける。
自分のカラダひとつで、どこに行っても続けられるランニングは、私にとって一生のバディーだ。そしてこれからもずっとずっと、この温かいコミュニティーで、新しいランナーの仲間と一緒に走り続け、それぞれの目標に挑戦し続ける仲間の姿に、ワクワクが止まらない。