私は人より物覚え・理解力が悪い方だと思う。でも、なぜか周囲の人たちからはそう見られないらしい。
それはおそらく「理解できているフリ」を幼少期から繰り返しすぎて、無意識的にいつでもどこでも行うようになってしまったからだと思う。表面的な「理解できているフリ」の裏側でこっそり、私は必死に教わったことをなぞり直し、自分なりの解釈に落とし込めるまで何度も繰り返し頭に叩き込み、やっと一時的に自分のものとできる。でも、それが1週間後も維持されている保証はない。

その積み重ねで、少しずつ前に進んでいくしかない。我ながら、あまりの遅さに悲しみすら覚える。

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そんな私でも、人よりも少し得意なスキルはいくつかある。当たり前と言われればそれまでだけど、それらを習得した過程を考えると、いずれにも「時間」は欠かせない要素だった。
たとえば、小学生から中学生に上がるタイミングで英語圏の海外に移住したとき。英語もその土地の文化もほとんどわからなかった私は、最初は屈辱を覚えるほど何もかもについて行けなかった。

勉強嫌いの私は、毎日苦しんでまで英語を身に付けようとするモチベーションは高くなかった。でも、最低限はついて行けるようにならなければ、私に生きる場所はないも同然だった。逃げ出したいと思ったことは幾度となくあったけれど、子供だった私には選択肢はなく、逃げたところで日本の息苦しい学校には戻りたくなかった。

そうやって嫌でも毎日英語漬けにされて、必死に耐え抜いた日々の先には、それなりに英語が身に付いた自分がいた。それだけ英語漬けにされていたらすぐに身に付くだろうと思われるだろうが(実際自分でもそう思っていた節がある)、結局何年もかかってやっと「平均より英語が使える日本人」になっただけだ。
それでも今の私にとって、ここまであって助かったスキルは他にない。

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人間は現状維持を好む生き物と言われる。誰しも、新しいことを習得しようとするときには、初めて直面する情報の数々に大なり小なり抵抗を覚えるものだ。「自分に本当にできるのだろうか?」と不安にもなる。だから、習得にはまず「慣れ」が第一関門となる。

同時に人間は、慣れる生き物であるとも言われる。上記の「慣れ」は、そうした情報の数々と、多くの時間を共にすることで得られるのではないだろうか。その段階まで来れば、あとはどこまで深くそれを極めていけるか自分との勝負だ。

「時が解決してくれる」という言葉は、一般的には、じっと黙って時が過ぎれば自動的に解決される物事に対して使われるが、これまで述べたような見方もできるのではないかと思う。つまり、前者が時間を使って受動的に問題を解決するのに対し、後者は時間を使って能動的に問題を解決する、という考え方だ。

時間を味方につけることで、事実上習得できないことはないのではないか、と思う。ただし、それは自分にその気があることが前提となる。
必要性も意欲も全く感じないことを嫌々と取り組んだところで、かけた時間に見合うだけの成果を得られるはずもなく、それは「解決」どころか、ただの「時間の浪費」となる。

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世の中の天才と呼ばれている著名人ですら、全く時間をかけずに今の地位に到達できたはずはないだろう。彼らはスタート地点、またそれに時間を投じる情熱や覚悟があったという点でその他大勢とはいくらか違っていたということはあっても、魔法の近道などはなく、時間と共にその道のりを着実に歩んできたのだろう。

私のような凡人ならなおさら、時間を上手く味方につけて様々なことを習得し、人生を豊かなものにしていく必要があるのではないかと思う。孤独で長い道のりも、きっとその先には、誇らしく思うほど成長した自分がいるだろう。

本業に関連する資格試験の勉強をしながら、ふとそんなことを考えている。