大学で英語が専門だった。
英語が流暢な先輩を見かけると、さすが外国語大学、と感動した。半面、本当に英語専攻か?というくらいたどたどしい英語を話す先輩も実に多かった。
4年も勉強して話せるようにならないという衝撃的な具体例を目の当たりにし、焦った。のんびりしていると私もそのうちの一人となってしまう。卒業後、一生、「えっ、外大出たのに英語しゃべられへんの?」と言われるのはご免だ!

英語だけしてきた私が求められたのは「英語じゃない何か」

不安と焦りに急き立てられて勉強に没頭した。大学の休みにはゲストハウスで働きたどたどしい英語を必死に話し、ネイティブの先生に頼み込んで空き時間に発音矯正をしてもらい、留学も経験し、4年生になると、私はなんとか「英語ができるほう」の先輩になっていた。
先生からも「もう大丈夫だ。どこでも働ける」と言われて心底ほっとしたものだ。
「外大出たのに英語しゃべられへんの?」の恐ろしい妄想から解放された瞬間だった。

思いがけないことに直面したのは卒業後、1社目の仕事を終えてからだった。
最初の就職先は海外勤務の契約社員。それが終了してからというもの、「英語を使った仕事」の中途採用がなかなか見つからない。見つかっても採用されないのだ。

「英語必須」という求人だったのに、面接で「TOEIC900?海外経験あり?いや、そこまでは求めてないんだけど……」と、落とされることが何度もあった。
「貿易事務といっても、メールが英語ってだけでそこまで英語使わないから……」
「海外事業部はマーケティング経験者だけを募集していて……」
「ほかに何かスキルがあればいいんですが……」
転職エージェントも困っていた。
「英語じゃない何か」を求められ、私は戸惑っていた。英語だけをやってきたから今の私がある。それじゃダメなのか。

その後なんとか食品会社に就職し、英語を使わない日々を送ることになった。
仕事がないよりはいい。でも、私の英語はどうなる?発音矯正に付き合ってくれた先生にも、学費を払ってくれた親にも、私がこなしたテキストも問題集やTOEICテストにさえも、なんだか申し訳なかった。

以前知り合った人が屋久島で宿を。そこで休暇を取ることに

そんなやりきれない気持ちの中、「リフレッシュ休暇」でぽっかりと5日間空いた。
リフレッシュ……。
そう、このやりきれなさに必要なのは、リフレッシュだ。私はある人を思い出し、ひとりで屋久島に行くことにした。

学生時代に働いていたゲストハウスに、1週間ほど滞在してくれた日本人のお客さん。
私が迎えた最初のゲストだったと思う。業務に不慣れな私を優しく見守ってくれて、焦る私の心を落ち着かせてくれる、穏やかで不思議な空気を持ったお客さんだった。
深い話をしたわけではない。一日中一緒にいたわけでもない。ただ寝る前と朝食の時間に少し顔を合わせただけだったけど、私にやさしい印象を残してくれていた。
チェックアウトの日に、感謝の手紙を書いて渡したのを覚えている。彼は「私も屋久島で宿をやってるから、いつか遊びに来てね」と言ってくれた。

その宿は枕流庵といい、天気の安定した尾之間という地域の美しい森の中にあった。
オフシーズンに入ったところで私の他に客はなく、宿の主――枕流さん――とそのパートナーの、これまた優しい女性が私を迎えてくれた。

「マナさん、卒業おめでとう。今は何をしているんですか?」
私は食品会社に勤めていて、それなりに楽しい、と話した。
その後、屋久杉の原生林をひとりで散歩しながら思い返した。
枕流さんは、私が英語を勉強していたことを知っている。今英語と関係ない仕事をしていると知ってがっかりしたんじゃないか。今の仕事はみっともないんじゃないか。

屋久島での経験は、仕事と学歴を分けて考えられるキッカケになった

せっかく「リフレッシュ」しに来たというのに、自分がいまだに見栄を張りたがっていることに気付いて気を落としてしまう。申し訳ない気持ちが再び膨らむ。
それでも樹齢が私の一生の何十倍もある屋久杉の森の中にいると、膨らんだ不安さえも途方もなく小さく感じられるから不思議だった。

森歩きから戻った私を、また笑顔で迎えてくれた枕流さんと食卓を囲み、私は告白した。
「今の仕事、悪くはないんですけど、英語を使ってなくて」
一生懸命勉強してやっと習得したのに、全然自分の仕事に役立てられていないこと。そのことで私を育ててくれた人に申し訳ないと思っていることを、素直に話した。
枕流さんは変わらぬ穏やかな表情でこう言った。
「英語の仕事に就くより、英語でマナさんの人生が豊かになったほうが、周りの人は報われるんじゃないでしょうか。習得したものは、もうマナさんの一部ですから」

屋久島の森で私がなんとなく感じたことが、言葉になったようだった。
私は悩みすぎている。視野が狭くなっている。そんなことを語る自然からのメッセージが、枕流さんを通して日本語になって私に届いたのだった。

屋久島の素晴らしい旅以降、私は仕事と学歴を分けて考えられるようになった。
英語の仕事じゃなくてもいい。いつかどこかしらで私の努力は活かされる。そんなどっしりした気持ちが心に生まれたのだった。

英語は私の一部に。英語が引き起こしてくれた「偶然」の出会い

屋久島の旅の翌年、退職した。友達に誘われ、しばらく海外でバックパッカーをした後、帰国して出会った外国人と結婚した。
偶然だったけど、それは私の英語が引き起こした偶然だった。

海外の貧乏旅行も、外国人との結婚も、英語なくしては絶対にうまくいかなかったと思う。英語がなければ旅の中での学びはもっと薄く、パートナーとの理解ももっと浅かったことだろう。
周りは私の旅の話を喜んで聞き、結婚を心から喜んでくれた。「マナは日本人とは結婚しないと思ったよ」とみんなが言った。

「英語でマナさんの人生が豊かになったほうが、周りの人は報われるんじゃないでしょうか」
屋久島の旅から5年経った今も、枕流さんの言葉が正しかったことを折に触れて思い知る。