「その時目指して頑張れ」
いかにも勇気に満ちあふれた名前をした彼は、私の大きな夢を聞いてそう告げた。そして最後に小さく、私の名前を呼んだ。
顔の見えない、たった数十秒のことだったけれど、私は彼の慈愛に触れられたと思った。
慈愛という2文字を打つこの指は今、勇気を掴んだあの時と同じ部屋にある。たった一瞬のあの出来事が、今でもこの部屋に閉じ込められている気がする。
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きっともう二度とあの様な数十秒は訪れないだろう。彼がいてくれた4年3ヶ月の中での絶頂は、間違いなくあの時だったと言い切れる。何にも代えがたい大きすぎる存在に、自分の声で夢を語り、ありがとうと伝える。このことがどれほど幸せで特別なことかわかったから。ほんの数十秒だとしても彼の秒針が私のためだけに刻んでいたなんて。嬉しくて信じられなくて、狂った様な歓喜に抱きしめられて私はしばらくのたうち回った。
彼はいつも慈しみの雨、慈雨みたいな人だった。直射日光が注ぐかんかん照りの大地に、雲一つない青空から静かに落ちてくる細い雨。それか、うざったいほどの晴れの日が続いて疲れてしまった時、朝起きたらしとしとと水たまりを作っている雨。
「旱天慈雨(かんてんじう)」の言葉にある様に、私が困り果てるといつも彼は救いの手を差し伸べた。彼の表情、言葉、声、一挙手一投足が私の干上がった心を潤していった。私は彼を追いかけた。一生にたったひとり、彼だけを追いかけるのだと確信しながら。
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でもあの感動的な日から1ヶ月もしない間に、どうしようもない理由で私は彼とさよならをすることに決めてしまった。
そうするしかなかったのだ。私自身を守るために。
別れた直後の毎日は、呆然として途方もなく広がる晴天だった。そこには彼が降らす雨はなかった。私は私を潤してくれない彼を責め、恨み、忘れた。時々思い出して覗きに行った時、私はこんなにも苦しんでいるのに、どうして彼はあっけらかんと笑っていられるのかと怒りを覚えたけれど、そんなひりひりとした想いはいつの間にか冷めていった。
何がきっかけで彼を忘れられたのかはわからない。でも私は自然と、彼がいなくても幸せに生きられる人生を探していったのだった。その道中でやるべきこと(やらなきゃ生きていけないこと)を見つけ、出会うべき人に出会い、愛すべき自分にも出会った。
気づけば彼がいない生活を始めて3ヶ月以上経っていた。何も追いかけず、すがらずに生きている自分が今はとても誇らしい。
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でも本当に、何も追いかけていないのだろうか。すがっていないのだろうか。一つだけ追いかけても良いもの、すがりついても良いものがあるとすれば、それは自分自身の持つ勇気だと思う。
思えば彼とさよならしてから、勇気のいることばかりやった。
けして上手くないけれど、親戚の前で歌を歌った。大切な友人に会うため、生まれて初めての南国で旅をした。アプリで知り合った外国人にも会ったし、婚活パーティにも行った。小心者の私にとってこれらは全て、迷いを消し去ってくれる勇気がないと出来ないことだった。
一つ一つのハードルを越えていくたび、背中を見せながら先を行く勇気が私の足を動かし、まだまだこんなもんじゃないぞとすがりつかせてくれる勇気が私の心を叩いた。勇気こそが誇りなのだった。
旅や婚活だけでなく、勇気は日常のどんな瞬間にも宿る。上司に話そうか話すまいか迷っていたことを話す時、意味の通るメッセージになっているか心配なLINEを何度も読み返してから送る時、照れ臭いけれど家族にありがとうと言う時。勇気を出すって大それたことじゃない。誰の目にも止まらない様な小さな小さな勇気の積み重ねが私を築いていく。
そして意外と、そんなちっぽけな勇気が大切な人と呑む夜の肴になったりするのだ。
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私はなんて勇気に溢れた人だろうと自分自身を褒めるたびに、彼と話したあの日の光景を思い出す。平凡な蛍光灯の下、美容室でトリートメントしたサラサラの髪を下ろし、愛を込めたメイクに縁取られた私は顔をほころばせ、堂々としていた。
「小説家になったら取材させてください」
緊張に覆われながらもそれを打ち砕く勇気を出し、同時に新しい勇気を掴んだのだった。
彼との心の距離をゼロにしたいという勇気が前者なら、後者は全然違う。勇気を出すことでさらに生まれた勇気と言えば良いのだろうか。それは彼がいようがいまいが関係なく発揮される勇気。カラオケも、南国旅行も、マッチングアプリも、婚活パーティも、全てが元をたどればあの日の彼に向けた勇気に繋がっている気がするし、あの日の勇気が生んだ真の勇気の様な気もするのだ。
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彼に心の底から純度100パーセントのありがとうはもう、想えないだろう。その代わり今は小さく小さく、心の端っこでありがとうと呟いている。
一生モノの勇気をありがとう。あなたと出会えて良かった。そんな想いはきっと、電光石火、超特急で進んでいく陽キャみたいな人には届かない。
でも届かなくて良い。届かないから、わかってもらえないからこそ良いことだってあるのだ。だから届かなくても大丈夫。
「小説を書きたい。誰かの素敵な妻になりたい。強く優しい母になりたい」
私だけの大事な夢を愛することが出来る今を、強く感じよう。勇気を持って夢を愛そう。