「幸せ過ぎて不安だ」
最近読んだ小説の中の文章にあった、幸せ絶頂期カップルの片割れが言った言葉。
読みながら、あぁそんな時もあったね、と自分を思い返した。
信じられないくらい幸せで、いつか失くしてしまうかもしれない未来の不安に少しだけ怯えていた日々が私にもあった。
といっても当時の私にとってその気持ちは、幸せにちらつく埃みたいなもので切実に不安に感じていたのではなかった。
私は楽天家で、幸せな時に幸せじゃない未来を考えるなんてナンセンス!みたいに捉えて、重く考えていなかった。
ただもしその不安が現実になるなら、それをするのは私ではなく相手だろうと考えていた。そしてその考えは当たった。
別れを受け入れられず、憎んだ。そう思う自分も嫌悪した
想像していたくせに覚悟は全くしていなかった私は、別れの時、現実を受け入れられなくて必死だった。泣いた。縋った。怒った。大好きだと伝えた。
それらが全部無意味で何をしても無駄だ、と分かってからはつらい日々だった。
好きでなくなろうと努力して、でもそれができなくて、相手を酷く憎んだ。
誰かを憎むなんて初めての経験だった。
憎むことはつらかった。
相手を心の中で蔑んでしまうことが苦痛なのに、やめられなかった。
相手をそんな風に思ってしまう自分にも心底自己嫌悪した。
この気持ちが自衛本能から来ているということもわかっていた。
相手を嫌いになればつらさから逃れられる。
嫌いになれば、楽になれる。
私が私を守るための心のメカニズム、なんて自己愛に溢れているのだろう??
私は更に自分が嫌いになった。
つらい日々から私を救ってくれたのは、時間だった
そんな毎日が本当につらくて、解決方法を探っていろんなことをした。
友達と会って話したり、本を読んだり映画を見たり、歌をうたったり、新しい出会いをみつけに出かけたり。
とにかく考えうるすべてのことをした。
それなのに、一度恋した頭はとことん馬鹿だった。
何をやっても思い出した。
寝ても覚めても、私はその人を思い出して、憎んで、嫌いにもなれず、だからといって今更ひたむきに好きだと思うこともできず、負の感情の嵐に苦しんだ。
結局私を救ってくれたのは、時間だった。
時が過ぎるにつれ、その人との思い出が遠くなっていく。
抱く気持ちは変わらなくとも、現実的に思い起こす時間が減った。
思い出す時間が減るうちに、その気持ちも日常の些細な気持ちで覆われていく。
私は段々と、私を苦しめていた多くの感情が薄くなっていっていることを感じた。
数年後の再会。私は楽になった。それと同時に、喪失した
それから数年後、私はまたその人に会った。
別に会おうとしたわけではない。仕事の都合上会わざるをえなかったのだ。
私は緊張したが、しかし、それだけだった。
数年前も同じ理由で何回か話す機会があった。その時はきりきりと胸が痛んだ。
でも、今はもうそれもなかった。
ただ、その人が会話の途中ふと笑ったのを見て、昔ならあたたかい気持ちになったんだろうな、という事を思い出した。
そして不意に、寂しくなった。
私はもうその感情を、思い出せない。
記憶としては思い出せる、でも、心がどういう風に感じたか、どんなあたたかさだったかは思い出せない。
もう憎んでも愛してもいない。
ああ、私は、気持ちを喪失したのだな、とわかった。
心の中に風が吹きこんできた。
恋をしていたときの感情のるつぼが、私にもたらしたもの
恋をしていた時、私の心の中は感情のるつぼだった。
好きだ、嫌いだ、心地よい、苦しい、楽しい、歯がゆい、大事にしたい、大事にされたい、叫びたい、消えたい、憎らしい、愛おしい。
言葉にできないたくさんの感情。
情動を動かし、時に輝き、けれどちょっと疲れる感情の数々。
その日々の中で私は、喜びや悲しみを知った。
心があたたかくなるということはどういうことか、愛するとは何かを学んだ。
そして、それらが失われることもある、ということを知った。
だからだろうか、人を愛することが前より難しくなった。
愛することに臆病になったのかも、と。それは以前にはなかった思いだ。
たまに私は、恋が私にさせたのは、成長ではなく、停滞なのではないだろうか、と思うときがある。
ただ、たとえそうだとしても、恋をして抱いた感情自体は、否定したくない。
愛することが無駄だったなんて思いたくない。感情は、私を深めてくれたと信じたい。
たとえ停滞しているのだとしても、弱くなったのだとしても、これからも私は生きていく。
生きていくために、また愛する一歩を踏み出したいから。