「好きなタイプは?」という難問。嫌いな方や憎む方なら…

「好きなタイプは?」という質問は、本当に難問だ。
正直に理想をあげればキリがないが、究極を突き詰めると「優しい」とか「誠実」に集約される。加えて、目の前にいる人との関係性――意中の相手なのか――も問題になってくる、と私は思っていたが、どうやら意中ではなくとも、目の前の人が絶対的に当てはまらないようなタイプを答えるのは興ざめなのでやめた方が良いらしい。
素直な気持ちさえも分からないのに、素直な気持ちをそのまま回答するのも、コミュニケーション上、楽しい回答とは限らないようだ。
本当に難しい問題だ。

今の私の「好きなタイプ」はなんだろうか。歳をとるにつれ、とったとは言ってもまだ1人でタクシーに乗るのは緊張するし、年金は支払いを猶予しているのだが、自分の変化について発見をした。しかもそれは、悲しい発見だ。

私は、好きなものよりも、嫌いなものの方がはっきりしてきたという発見だ。
私は、こんな人がいい!よりも、こんな人は無理!の方が明確で、自信をもって答えられる人間なのだ。私はそれを、悲しいことだと思う。

自分が何に惹かれるのかよりも、何を憎むのかという方が鮮明だというのは、世界を慈しむ才能よりも、不満をぶつける精神の方が大きいことを意味するように思える。
美術館に行って、よく分からない現代アートをみて、よく分からないけど好きだなあ、と思える作品を見つけられる人の方が、社会の構造を多角的に分析し、適格な改善点を言い当てられる人よりも、精神的には豊かだと私は思う。

昔の私は「面白い人が好き」だった。総天然色みたいな彼が

では、昔の私はどうだったか。これは自信を持って言える。
私は、面白い人が好きだった。それは、明確かつ圧倒的で、揺るぎないものだった。

高校生の時、初めてバレンタインのチョコレートをあげた人も、本当に面白い人だった。もう朧気にしか思い出せないその人との記憶も、天を仰ぐような笑い方と、それにつられて私も笑っていた事実は思い出せる。
些細な言動一つ一つが全て面白くて、というよりは、特に面白いことを言わなくても、その人が言えばなんでもおかしくて、私には彼が総天然色に輝いて見えていた。

男子校に通っていた彼に「バレンタインデー貰う相手とかいるの?」とラインした。
「いないよ」
「じゃああげてもいい?」
「いいよ」
こんなやり取りをするのは初めてで、いちいち心臓がうるさかった。返信がくるまで勉強しようと思っても、何も頭に入ってこなかった。
「私、料理上手じゃないから正露丸用意しといてね」
「わかったよ(笑)」
そんな冗談を言って、余裕ぶってみたりした。全然余裕ではなかったのに。

「1つ聞いていい?」で途絶えたLINE。通知音に飛び上がった

「ところでさ、1つ聞いていい?」と彼から聞かれた。何を聞かれるのだろう。
そのチョコレートは本命なのかって聞かれるんだろうか。今聞かれたら、何て答えたらいいんだろう。告白なんてしたことない。どうしたらいいんだろう。
考える時間がたくさん欲しかったけど、不自然に間を空けるのもはばかられたから、不安を全身全霊で隠して、「何?」と聞いた。

テンポのよかったラインが途絶えた。中々返事が来ない。
核心的なことを聞かれたくない。まだ心の準備が出来ていない。誰かに今すぐ相談したい。でも焦れったいから、いっそのこと早く返事をして欲しい。

ラインの通知音がなった。音に反応したのか、返事が来てしまったことに反応したのか、心臓がはねあがった。通知を確認した。
「探したけど正露丸なかった!ストッパ下痢止めでも大丈夫?」

ああ。私は面白い人が好きだ。この人が好きだと、その時人生で1番自信のある感情が芽生えた。