私は、今でもコンプレックスのかたまりだ。
小さい頃から回りの大人からは「しっかりものだね」と誉められていたし、小学校では毎年学級委員に推薦されるほど、真面目で先生たちからの信頼も厚かった。典型的な優等生タイプ。
そんな私が、人生初にして最大の挫折を味わったのが、大学受験だった。
中学受験を経て、進学校と呼ばれる中高一貫校に入学し、中学から高校までの全ての時間を、勉強に捧げたといっても過言ではないくらいに勉強してきた。もちろん文化祭や体育祭などの行事ごとは全力で楽しんだし、文化部だけど部活動もしていた。それでも、勉強することと成績によって決まることは、私にとって生きる世界の全てだった。
進学校に通い、有名な国公立大学に進学すれば、何者かになれる気がしていた。有名な企業に就職して、バリバリ働いて、たまに海外に出張なんか行っちゃったりして。せっせと勉強に励みながら、漠然と、そんな未来を想像していた。
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ところが、そんな未来は叶うどころか、入り口に立つことにすら、私は失敗してしまったのだ。滑り止めの私立入試に始まり、目標の国公立大学に至るまで、ことごとく「不合格」だった。滑り止めの滑り止めだと思っていた大学まで受けたはずなのに、それらも全て、失敗に終わってしまった。
唯一私を拾ってくれたのが、ずっと半ば馬鹿にしていた地元の大学だった。片田舎のショボい大学。誤解を恐れずに言うと、ずっと、そう思っていた場所だった。
馬鹿にすらしていた場所しか、自分を受け入れてくれなかった。まわりの同級生は、思った通りの有名な大学に進学していったのに。
どうして私だけ上手くいかなかったの?落ち込みながら、泣きながら、私の何がいけなかったの、と自問自答し続けた。死にたかった。大袈裟かもしれないけれど、自分が人生で一番時間を割き、頑張ってきたことが全て無駄だったと言われた気がした。今までの私の人生を、まるごと全て、存在すらも否定された気分だった。
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不服を言いながらも、居場所がそこしかない私は、その大学に進学した。しばらくは腐りきっていて、何に対しても卑屈に考えていた。
はじめは、その大学で楽しそうに過ごす同級生を馬鹿にもしていた。こんな場所で友達なんていらない、そんな風に思っていた。だけど、そこで尖り続けられるほど、私は強くもなかった。1ヶ月もたつと、サークルを2つ掛け持ちし、バイトにも行き、よくいる大学生になった。
思っていたのとは150度くらい違ったけれど、わたしはきちんと楽しんだ。大学を卒業してずいぶんたつ今もなお、会い続けている間柄の友人も何人かいるくらいに、仲の良い友達も出来た。
私は教育学部に進学したから、在学中、ゼミ活動の一貫で、教授について高校生に模擬授業をしに行く機会が度々あった。ある日、ゼミの教授に、「君が高校生に伝えたいことを伝えなさい」と時間を与えられた。
久しぶりに行った高校では、大学生を前に目をキラキラさせる子や、試すように私に視線を投げ掛ける子、だるそうに肘をつく子、当然だけど、色んな生徒がいた。懐かしい光景だった。
「失敗しても、大丈夫です」
思わず、口にしていた。大丈夫だった。当時は確かに死にたいと思ったし、人生終わりだと思ったし、私なんて消えてしまえば良い、価値のない人間だと思った。
思ったけど、大丈夫だった。襲いくる後悔やらコンプレックスやら不甲斐なさやらになんとか堪えて、たくさんの人に出会って、文句を言いながらも色んな経験をして過ごすうちに、大丈夫になっていた。
高校生に話し終えた私に、教授は少し微笑んで、慈雨のような言葉を掛けてくれた。
「自分の弱さや痛みを人に伝えられるのは、君が成長した証拠だと思います。君は強い」
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私はまだまだコンプレックスだらけだ。受験なんてもう縁がない歳になったいまでさえ、東大生が出てるクイズ番組なんか見られないし、高学歴の人を見るとうらめしい視線を投げ掛けてしまう。
でも、大丈夫。そう言えるくらいには、強くなれた。あのとき、自分なんてなんの価値もないと涙を流した自分を、抱き締めてあげたいとさえ思う。
綺麗事を言うつもりは全くないし、欲を言うと、有名な大学に進学していればもっと素敵な人生が待ってたんじゃないかとも思う。辛い経験なんてしないに越したことはないし、思いどおりの人生になるのが、きっと一番良い。後悔なんて捨てるほどあるし、全てに納得しているかと言われると、そうでもない。
だけど、自分史上最大の失敗経験から10年、人生に失敗した私は、教壇に立って、「思いどおりに行くのが一番良い。でも、大丈夫。失敗したって、私はこうやって生きてます」と生徒の前で堂々と、私の人生最大の恥を晒している。
私の恥と悔しさとしょっぱさが、誰か一人の役に立てば良いなあ、誰か一人でも勇気付けられたら良いなあ、なんて夢見ながら、今日もなんとか踏ん張っている。