高校生のとき、苦手な人たちがいた。
同じ中学出身のメンバーで同じ部活。クラスが一緒になっていることはなかったが、大体の時間を一緒に過ごしている、女の子たち。私と同じ部活の部長、副部長の2人がその苦手の対象だった。

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正直いつも一緒にいることや、仲が良いことに対して特に不満はない。問題なのは彼女たちが『自分ひとりでは決して何かを決めることはしない』ことにあった。

たとえば「この日ご飯に行かない?」と言っても「もう1人に聞いてみるね」と返ってくる。たとえば部活の進め方で相談しても「一回先生に聞いてみる」「副部長と相談して決めるね」とすぐに返事が返ってくることはない。
そのくせ、2人が揃った場であればすぐに判断ができるので、後から一部員の私たちが「それってちょっと違うんじゃない?」と相談しても「決めたことだから」と一蹴されてしまうのであった。

意思を持たない、自分で判断を下すことができないのに、2人になれば無敵になる彼女たちが、私はとても苦手だった。

それから気付けば10年近い月日が流れ、高校生だった私たちは社会人となった。ずっと一緒にいた2人もそれぞれの進路に進み、現在は会社員と保育士として働いている。

今になってわかるのは、社会に出れば彼女たちの姿勢が『普通』であったということ。会社では自身に決定権はなく、いつだって誰かに相談することが正しい。
判断をしなければならない彼女たちが責任から一番遠い状態を得るには「相談するね」「確認するね」という言葉が、最も適していたのであろう。そもそも高校生の何ら知識のない人たちが勝手に決められることも、重い責任を背負うことも難しかったのだと今ならわかる。

自分の判断はいつも正しい。そう信じて疑わなかった私の考えが変わるまで、随分と長い時間を要したが、彼女たちの考え方の片鱗をやっと理解できた。

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そしてもう一つ。私は彼女たちのような『親友』と言われるような2人にどこか憧れを抱いていたのだと思う。

女子社会の中で、仲間がいるということは自分の地位を保つために非常に重要である。もちろん1人で存在感や発言権がある子もいるが、そうでない人たちは何かと集団を作って一緒にいることが多い。

特段私がそういったことが苦手だった、というわけではないが、親友のような2人となると話は別だ。広く満遍なくみんなと仲良くしていた自分にそんな特別はいなかったし、学校が離れればその人たちとの交流が浅くなるのも明白なことであった。

きっと高校生の私も心のどこかでそれを認識していたのだと思う。だからこそ、特別な2人の関係値に憧れがあり、それが少し妬ましかったのである。客観的に考えられる今の私からしたら、大人びていると考えていた高校生時代は存外子供らしさに溢れていたようだ。

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地元に残っている彼女たちと最近ではめっきり会っていない。しかし次に部活メンバーと集まることがあれば、彼女たちとも以前より近い距離で話ができる。そんな気がしているから、次に会えるのが少し楽しみなのである。