私にとって、高校生の頃までは、「休みの日」と「休みじゃない日」は明確に分かれていたように思える。「休みじゃない日」は学校に行く日。「休みの日」は学校に行かなくてよくて、課題を片付けたり買い物に出かけたりする日。
実にシンプルで、同時に単調な日々だった。
一方で、大学生の頃から、「休みの日」と「休みじゃない日」の境目は曖昧になった。
授業があるときは授業に出て、そうでないときはサークル活動に参加したり、アルバイトをしたり……。学業以外は自由意志によるものとはいえ、とにかく、大学生としてやるべきこと、求められていることは思いの外、膨大だった。

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元来だらだらした「何もしない」時間が苦手な私だったし、自分が何に集中すればいいかもわかっていなかったものだから、私はただただ動き続けた。学業の息抜きとしてサークル活動やアルバイトをして、サークル活動の息抜きとして学業やアルバイトをして、アルバイトの息抜きとして学業とサークル活動をするような状態になっていた。
そのどれもが大学生の私にとっては「仕事」でもあり、同時に他の「仕事」の合間の「休み」でもあったのだ。

列挙した3つの「仕事」にはそれぞれ役割があって、学業は本業、サークル活動はコミュニティ(居場所)、アルバイトは生活費のためであった。
社会人になって会社勤めを始めると、実質的にそれらをすべて本業一本でまかなうことは可能となる。だから、本業が休みの日にわざわざ他の「仕事」に手を出して、自分をそれ以上忙しくさせる必要性はない。
それにも関わらず、私は社会人になってから執筆活動という「仕事」を始めた。
正直、執筆は基本的には孤独な作業だし、大したお金にもならない。週末にパソコンに向かって頭を捻らせていると、たまに、ふと「なぜ私は週末になってまで仕事もどきをしているのだろう」と我に返ることがある。
別にこんなことしなくても、生活に何の支障もきたさないから、これは「仕事」ではない、と考えることもできる。でも、何らかの活動を行っている限り、それは「休み」でもないことは確かだと思う。

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そういう意味で、本当の休みというのは、生きている限りないのでは、と私は思う。
去年コロナウイルスに感染して1週間仕事を休んだことがあるが、あくまで本業の仕事を「休んだ」のであって、私の体はウイルスと闘うという大仕事の渦中にあったからだ。
休日に一人で、または気の合う人とリラックスした時間を過ごすのも、忙しない日常というマラソンの途中の水分補給のような、生きる上で欠かせない時間である。それも能動的に行う、必要な行為であると考えると、立派な仕事ではないだろうか。
老後に会社を退職したとしても、それを休みと呼べるかは怪しい。そのときは、「残された人生を楽しむ」という仕事が課されることになるからだ。

だから、休日はあっても、「休み」は私にはない。常にやりたいこと、やるべきことが私を待っているから。
それは決して辛いことではない。心躍る何かに出会える可能性と常に隣り合わせな状態だと考えると、そのこと自体が、生きる楽しみ、生きる意味であるからだ。実際、今や私の生きがいのようになっている執筆活動を、やめる選択肢など現状全くない。
だから私は休日も動き続ける。終わりを迎えるそのときまでは、人生が絶えず動き続けるように。