私は日本語をあまり上手くしゃべれない。
I can’t speak English well.
Ich kann nicht gut Deutsche sprechen.
上から日本語、英語、ドイツ語。意味は全て「私は〇〇語をあまり上手くしゃべれない」というもの。これくらいなら3か国語でしゃべれる。
学習歴はそれぞれ、日本語はネイティブとして28年、英語は中学1年生から15年、大学で専攻していたドイツ語は4年。そして文字化けしてここには記載できなかったけれど、高校・大学と第二外国語で中国語を6年間学び、中国語も少し。
こうして羅列してみると、わあ、語学堪能、才学非凡、才色兼備で美人薄命……!(後半はただの願望である)。
しかし、これくらい「なら」しゃべれる、のではなく、これくらい「しか」しゃべれないのが実際のところである。
高校は国際科に通い、大学はおそらく日本で一番の外国語大学で、ドイツ語を専攻した。私の履歴書を見た人は必ず、「英語ペラペラなんだね」「何か国語喋られるの?」という感想を漏らす。冒頭の言葉に戻る。
I can’t speak English well.
私のコンプレックスは、そう、語学力がないことなのだ。
◎ ◎
私の語学コンプレックスは高校の入学式の翌日から始まる。
中学1年生から憧れていた国際科のある高校。受験英語の猛勉強を経て、合格の2文字を見たときは、小躍りして喜んだ。文字通り、踊ってしまったのだからその本気度が分かるだろう。ルンルンな入学式を終え、現実は翌日訪れた。
授業のオリエンテーションを終え、班分けをし掃除係が割り当てられた。トイレに寄ったので、他の4人のメンバーより遅く到着した。すると、その4人は流暢な英語で盛り上がっていたのだ。
私以外の4人のメンバー構成はこうだった。1人、10年アメリカに滞在した帰国子女。1人、日本語英語韓国語のトリリンガルの韓国人女子生徒。1人、オーストラリア人とのハーフの男子生徒。1人、180センチもあってモデルをしているイギリス人女子生徒。
名前順で班分けしたときから、嫌な予感がしていたのだ。自慢じゃないが、こちとら生粋の東京下町ネイティブ。そんな私と彼らは、発するオーラもたたずまいも何もかも違った。
彼らは英語ができるほど尊敬を集めるこの学校で、すでに余裕すら感じさせた。私が何を話しているか全くわからなかった英語で盛り上がっていた彼らは、遅れてやってきた私を見て、ピタリと会話を止めた。そしてすぐに皆笑顔になり、「まよ~、待ってたよ~!さあ掃除しよ!」と、これまた流暢な日本語で会話を再スタートさせた。
◎ ◎
英語が分からない私に合わせてくれた、彼らは優しい。彼らは何も悪くない。
でも、悔しかった。同じ15年を生きてきたのに、この違いはなんなのだ、と。私だってそれなりに英語勉強を頑張ってきたのに、この差はなんなのだ、と。
見てろよ、絶対に英語ペラペラになってやろうじゃん。下町ネイティブガールなめるなよ!と、私は勝手に宣戦布告を受けたような気になった。そして、誰も売っていない喧嘩を、これまた勝手に買おうと決意した。このエピソードが私にとっての臥薪嘗胆となり、他の科目はさぼりまくった3年間の中で、英語だけは勉強を頑張るモチベーションとなった。
受験期には英語が得意分野となり、私は外国語大学に合格することができた。TOEICの点数で分けられる英語のクラスメイトには、「まよさんて帰国子女?」と聞かれるくらいには英語が喋られるようになった。高校のあの日に勝手に買った喧嘩の勝敗は、少なくとも負けではないようだった。
しかし、この大学では、英語が喋られるくらいでは尊敬を集められなかった。初対面の人に学内で会うと、二言目にはこう言われるのだ、「まよちゃんって専攻なにー?」と。
◎ ◎
私の専攻はドイツ語だった。しかし、入学してすぐに気が付くことになる。この世には恐ろしいほど語学センスのある人がいるものなのだ、と。
私の知る最もすごい例の友人は、母国語の中国語、趣味の韓流ダンスが長じての韓国語、中学校から日本に来たはずなのに私より語彙力豊富な日本語、なぜか当然喋られる英語、そして専攻のドイツ語、計5か国語を自在に操った。同じスタート地点で始めたドイツ語なのに、どんどん置いていかれる自分が情けなかった。
特にリスニングに関しては、テストを受けている時に、分からな過ぎて半べそをかく始末。
Ich kann nicht gut Deutsch sprechen.「私ドイツ語を上手くしゃべれません」というのは、謙遜でもなく、なんでもない。私の敗北宣言なのだ。
大学を卒業して、就職をして、私の語学力コンプレックスは更にこじれてしまう。なまじあの大学の卒業生ということで、「英語ができて当たり前」という無言の圧力を感じるようになったのだ。中途半端な英語、戦力にすらならないドイツ語と中国語。勉強漬けの大学生活を経て、やっと勉強から解放されると思ったのもつかの間、いまでもちょくちょく参考書を開いては勉強を続けている。
◎ ◎
そんなわけで、私の語学力コンプレックスは根が深く、そしてこれから先も向かい合わなければいかないもののようだ。
しかし、最近こうも思う。「できない」「not」「nicht」、これらは、全部否定形を表すが、そうもネガティブになる必要もないのでは、と。外国の人はたとえ一単語、一フレーズしか知らなくても、「私〇〇語知っているよ」と言い張るではないか。
私は日本語が上手くしゃべれます。
I can speak English well.
Ich kann gut Deutsche sprechen.
そう胸を張って言える日まで。東京下町ネイティブガールの逆襲は、まだまだ続く。