ふと人の消息が気になることがある。
小学生の頃の同級生、留学先で出会ったキャンプのメンバー、幼い頃の初恋の人。
ぼんやり誰かに思いを馳せるのは、どこかノスタルジックな時間だ。だいたいはそこで終わるけれど、ごくたまにSNSの検索欄に名前を打ち込んでみることがある。多くの場合その行動は空振りに終わる。まぁこんなもんだよねと検索欄を閉じ、その人の面影を懐かしむにとどまる。
ところがその日、検索欄に打ち込んだ名前は、あっさりとその行く末を示してくれた。
◎ ◎
13年前。
彼女は小学生だった私の親友だった。
病弱だった彼女が学校を休む度にぽっかりと空いた隣の席を眺めながら、彼女の代わりに教室の花に水をやった。彼女がいない学校はつまらなかったけれど、その分明日彼女が来たらどんな話をしてなにをして遊ぼうか、考えながら休み時間を過ごした。
彼女が転校したのは5年生に上がる頃。いまの小学生ならスマホで連絡先を交換するのかもしれない。けれど当時はスマホなんてなかったし、小学生が携帯電話を持つなんて滅多に見られない光景だった。私と彼女も例外ではなく、新しい生活に追われる中で手紙のやり取りも続かなかった。
そんな彼女のアカウントを見つけた。
アイコンの写真はあの頃の面影がそのまま。プロフィール欄に示されていたのは劇団の名前と次回公演の情報。あの日の親友は役者として活躍していたのだ。
間違いない、彼女だ。
そう思ったらいてもたってもいられなかった。すぐにDMを開いて文章を打ち込む。
『突然すみません。もしかして13年前に○○小にいた○○ちゃんではありませんか?』
彼女の立場上返事をくれるかどうかは賭けだったけれど、何度もメッセージを読み返して失礼がないことを確認してから送信ボタンを押した。
そして後日。私は都内の劇場に来ていた。
◎ ◎
今日、私は彼女と再会する。
はやる気持ちを抑えながら、チケットが示す席番を確認しながら客席に着く。リーフレットを開くと、そこにはキャストの顔写真と観客へのコメントがあった。上から丁寧に読み進め、ようやく彼女のコメントに辿り着いた私は思わず目を見開いた。
「一番の親不孝は、親より先に死ぬことだ。」
小学校の先生が教えてくれた、と前置きして綴られた言葉。13年前、私と彼女が親友だったあの時の担任の先生の言葉だとすぐにわかった。
演目に合った言葉であったのはたしかで、この場に居合わせたのは偶然かもしれない。けれど劇場に足を運んだ人間の中で、私にしかわからない二人の思い出が織り混ぜられたコメントを何度も読み返した。
彼女も私たちが親友だった日々のことを思い返してくれていたんだろうか。スマホのデータに残ることのない記憶を彼女もまた、大切に胸にしまってくれていたんだろうか。そう思ったら目頭が熱くなった。
◎ ◎
SNSなんてなかったあの頃。
彼女が学校を休むと一日がとてつもなく長かった。話したいことを心に留めて眠りについても、彼女のいる明日が来ないことだってあった。
もしあの時SNSがあったらそんな思いを抱くことはなかったかもしれない。けれど同時に私たちがこんな形で再会することもなかっただろう。
SNS普及の過渡期に生まれた私たちだからこそ、記憶と思い出を頼りにSNSを開いた。13年が隔てた私たちが指先ひとつで再び繋がったことに、不思議な縁を感じている。
私たちはSNSを通じて、また話をするようになった。あの時と違っていつでも伝えたいことを伝えられるツールが手の中にある。けれど私はあの時のように、彼女に会う時が来たら話したいことを心に留め続けている。近況報告も思い出も山ほどあるけれど、それを指先で綴ることはない。
近い将来、私たちが本当に再会する時まで取っておくのだ。