社会人になったばかりの頃、職場での自分と、家での自分とのギャップに、心が狂いそうになっていた。
思い返せば、小学生の自分も、中学生の自分も、高校生の自分も、大学生の自分も、全てが異なった人格であったように感じた。
私には出会った人の数だけ自分が存在した気がした。
◎ ◎
学生の時には、人によって違う自分でコミュニケーションを取る事に罪悪感を感じる事はなかった。というより、それによる不便さや生きにくさを感じはしても、私の体は勝手にそのように対応してしまう訳で、これ以外の人との関わり方を知らない訳だった。
だが、社会人になった事でそこに給料が発生するようになり、私の罪悪感というセンサーが反応するようになってしまった。
家では干物女代表のような服装でダラつき、口から出るのは汚い言葉のオンパレード。
職場では清潔感溢れる服に身を包み、虫も殺さないような顔をして流れるようにお世辞という嘘を吐いた。
人によっての顔が違い過ぎる事への自覚はあるため、知り合いが一堂に集結する結婚式などというイベントは私には到底開けない、と勝手に無駄な想像をしていた。
"私は自分を偽って他人を笑顔にし、お金を貰っている"
その事実がとても気持ち悪かった。そして、私は自分を偽らなければ社会に出る事が許されない人間なのだ、と極端すぎる勝手な判断を自らに下し、更に自分の首を絞めていた。
そんな私はドMなのだと思う。
◎ ◎
今になって冷静に考えれば、「自分だけがおかしいのかもしれない」という悲劇のヒロインシンドローム的な心情から派生しているものに過ぎないのだろうと感じる。
そもそも、他人が自分以外の人間と2人きりで居る時にどんな彼らで居るのかを知る術もなければ、他人の家と職場での落差を知る術もない。
"他人のキャラクターには一貫性があり自分にはない"と信じきっている時点でかなりの痛さを感じる。
当時の私は、"本当の自分"を押し隠している事の苦しさに悩んでいるようで、実際には"本当の自分"など存在しない事実に気づいたショックの癒し方を模索していただけにも思える。
だが、当時の私はとても真剣に思い詰めていたのだ。
そんな私を女友達は夜の街に誘った。
彼女は、年上彼氏の友達の友達が経営するというバーに連れて行ってくれた。
そこのバーのママはMtFだった。
◎ ◎
ママは40代のとても素敵な人で、私たちのような"お子ちゃま"の話にも真剣に耳を傾けてくれた。
私が職場と家とのギャップについての話をすると、「真面目すぎんのよ。意外とみんなそんなもんよ?だから大丈夫」と明るく励ましてくれた。
……真面目……。自分が"悪"だと捉えていた感情は、他者から見た時に真面目だと言われるような代物であったのか、と驚いた。
それまで、社会不適合者や精神異常者といった言葉しか浮かばなかった私にとって、ママからの言葉は新たな自分に出会わせてくれるものだった。
帰り際、女友達がトイレに行った後、ママは笑顔で私に口を開く。
「迷える子羊はいつでもwelcomeよ」
その一言に私は危うく涙をこぼす所だった。
私はもう、この当時に悩んでいた気持ちを上手く思い出す事が出来ない。
悩みというのは成長する事でしか乗り越えられないのかもしれないし、成長とは、"引き"の目を持つ事を言うのかもしれない。
何か物事が起きた時、いかにズームインせずズームアウトした視点を持てるか。
迷える子羊は今日も背伸びをせずに生きる。