12月の街を歩けば耳にするクリスマスソングの歌詞には、「大切な誰か」が登場する。一心に想う人がいて、その心が届いたり、届かなかったり。
そんな純粋な恋心って何だったっけ。
去年のクリスマス。私はぼろぼろで、仮りそめの男に支えられてやり過ごした。
仕事で挫折した。「苦しい立場にいる人の声を拾う仕事がしたい」そう思って、ものを書く仕事に就いた。誰かと会って話を聞き、その人の物語に触れる感動で、仕事の辛さやプレッシャーは消え去る。
◎ ◎
当たり前だが、仕事は喜びばかりではない。ある時、大事な人を傷つけてしまった。何をしても、その人を守ることも、事態をよくすることもできなかった。
自責の念、無力感、理不尽への怒り、逃げたい気持ちがとぐろを巻き、襲いかかってくる。仕事をしようとパソコンを開くと涙と嘔吐が止まらない。
適応障害の診断をもらった。どこでも誰とでも適応できるのが強みだったはずが、不意に限界を知った。
気づけば、長い学生時代を過ごした街に足が向いていた。
JRの在来線の中で、大学の同期だったがそれほど仲良くもなかった男の子のことがなぜか頭を過ってラインをした。
インスタグラム越しに見る彼はいつもどこか知らない色んな所で、好きなことをしている。そんな刹那的な気ままさに、本能が飢えていたのかもしれない。
すぐに返事が来て、その晩飲みに行くことになった。学生時代は深い話をしたこともなかったのに、閉店時間まで話し込み、それでも足りず一緒に宿に帰った。部屋に着いて二言、三言話したが、急に我に返り黙り込んでしまった。なんだこの状況は。
うつむく私を彼が急に抱きしめた。
「女の子だ」
なんだよその感想。人格をのっぺらぼうにされた気分に一瞬なりながらも、ずたぼろの私を求めてくれたことがうれしかった。
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それから1週間を一緒に過ごした。宿に遊びにきては、「ただのお風呂借りに来た人だから」と私に特別な思い入れがないことを強調した。
織り込み済みのお互いの下心と、男を頼る自分への嫌悪感が入り混じる。幼い頃、父と別居できずに苦しむ母を見ながら、私は絶対に独立した強い女になるんだと決めていたのに。精神を保てないときは、昔のトラウマさえ加勢するらしい。
1週間の間に、私はまともに食べられなくなっていた。
ホームに逃げているのは嫌。でも職場の近くには怖くて戻れない。
「旅行しよう」。彼が言った。クリスマスの早朝、電車を乗り継ぎ、もうこの先来ることもないような小さな駅で降りた。雪の舞うやけにロマンチックな夜だ。黄色信号が点滅する空っぽの幹線道路を2人で歩く。
少し歩くと喫茶バーが目に留まる。「入ろうか」。私はシナモンのきいたグリューワイン、彼はラム酒をたのみ、向かい合ったそれぞれの側から1つのチョコケーキを食べる。
甘いのに、甘くない。何やってんだろう。この時間に意味を求めてしまう。
過剰なまでの責任感と義務感からの、逃避と解放の中なのに。心の赴く方にむかって生きている彼といるということは、知らない世界を体験できてるってこと?
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彼の心も満たされてはいないらしい。よく、恋人の話をしていた。
ずっと付き合っているけど半年以上連絡もない。右手の薬指には、その人と一緒に作ったというシルバーリングがいつも光っていた。
「彼女がいないと何してても楽しくない」
彼が刹那的に好きなことを求めてふらふらしているのはどうしてか、その一端に触れた気がした。
彼と私は、それぞれに気を紛らわせるのにちょうどいいみたいだ。そんな不真面目なしのぎ方っていいのだろうか。
心の錨は降ろさない。でも、渡していい範囲で気持ちと身体を預ける。そもそも、自分の全てを仕事なり1人のパートナーなりに負わせることが、行き過ぎた期待なのかもしれない。
1年経った今も、逃げるためだけにあの一連の時間を費やしたのだろうかと時々思う。
不真面目で、ふしだらだ。仕事への思いも、まだ成仏しきっていない。でも、少しずつ依存先をわけて、今をしのぐという生き方を知ったのだった。
別に自分の心の全部をあげたりしなくてもいい。今をしのぐ「大切な誰か」という関係もある。それは、あの境遇の私と彼だったから、経験できたのかもしれない。