自分の手でお金を得ることに、謎の強いこだわりがあった

比較的裕福な家庭で、何一つお金で困ることなく育てられたはずの私は、なぜか学生の頃からそこそこの貧乏性だった。

電車代を節約するためなら、数キロ歩くことは苦ではなかった。バイトとポイ活は、もはや趣味と言ってもいいくらいだった。
金銭的にカツカツだったわけではない。むしろ、親は私が何も言わずともウン十万の小遣いをくれることもあった。それでも、それには極力手を付けずに自分の手でお金を得ることに、謎の強いこだわりがあった。

親は、私を金銭的に不自由なく育ててくれた一方で、私を精神的に縛り付ける毒親だった。いよいよその毒親の元から逃げるとなったとき、上記の強いこだわりの理由が少しわかった気がした。

毒親が、私が本当にほしかったものの代わりに与え続けた金銭や物品を、私は潜在意識的に気持ち悪く感じ、生理的に受け付けなかったのだ。「自由の象徴」であるお金を、私の自由を奪う張本人から快く受け取れないのは、私にとっては何ら不思議なことではなかった。
実際、引越し費用にアパートの諸費用と、毒親の支配からの脱出にはそこそこの代償を伴い、お金なくして自由など到底得ることはできないのだと痛感した。

お金を使う刹那的な快楽よりも、私が優先して追い求めるもの

社会人になる前に、資産運用をはじめとするお金の勉強を始めた。そして、実際に投資信託の購入もした。まだ、今ほど世間的に投資やFIRE(経済的自由と早期退職)がもてはやされていなかった頃の話だ。

社会人となった今も、学生の頃と金銭感覚はほぼ変わっていないと思う。むしろ、学生時代の「まぁまたバイト頑張って稼げばいいか」のマインドが通じなくなった分、余計財布の紐は固くなったかもしれない。

そんな私の今の密かな楽しみは、毎月、全保有口座の残高を記録して、額が増加していく様子を見ることだ。一見すると守銭奴に見えなくもないが、私は人生の楽しいことを捨ててまでお金を貯め込みたいとは思わない。何にお金をかけて、何にかけないか、このメリハリを意識してつけることによって、何が本当に自分にとって大事かをよく考えることができている。

お金を使う目的として一般的によく「ストレス発散」が挙げられるが、お金を使うときの快楽は、案外一瞬のうちに過ぎ去ってしまうものである。私はその刹那的な快楽よりも、将来何かの拍子に必要となる自由や、それに備えられているという安心感を得る方により重きを置くことを選択しただけだ。

自由にしてくれるはずのお金で不自由を感じては、元も子もない

究極の自由とは、生活費を得るための労働からの解放だと思う。実際、昨今話題のFIREはそれを目的としている。私も例に漏れず、FIREという人生の選択肢を知ってからは、仕事がしんどくなるたびに「いつかFIREできたらな……」と夢を見ている。
正直、達成できるかできないかはわからないし、結局実行せずに人生を終える可能性も大いにあると思っている。

何年かの貯蓄や投資の甲斐あって、実際辞めようと思えば今すぐにでも仕事を辞めて、数年間は何もしなくても生きていける状態にはなった。それでも、私が心身ともに健康的に働ける限りは、結局は労働を続けていくような気がしている。

ただでさえ何が起きるかわからない人生に、不安定な世の中がさらに追い討ちをかける。基本的にお金は、ないことで困ることはあっても、あって困ることはない。これまで私が積み上げてきて、そしてこれからも積み上げていくであろう高さは、私に大きな安心をもたらしてくれるだろう。

もちろん、お金はいずれ使うためにあるのであって、逆に私がお金に使われないようには気をつけないといけない。私を自由にしてくれるはずのお金が原因で不自由を感じては、元も子もないからだ。
まだまだ、道のりは長い。最大限幸福を引き出せるようなお金の使い方をじっくり考えながら、今日も私は平凡な会社員として生きている。