2年前の春、大学を卒業した私は、ずっと憧れていた助産師になった。
希望していた病院に就職し、希望していた産科に配属された。
学生の頃から遠距離恋愛をしていた彼の近くに引っ越し、幼い頃からの友人も偶然近くに就職していたため、よく会って遊んでいた。
順風満帆だった。しかし、そんな生活も長くは続かなかった。
適応障害は誰にでも起こり得る。でも信じられなかった
梅雨に入る頃、少し長い休暇をもらった。
コロナ禍のため、どこに出かけるでもなく、好きなことをして過ごしたが、休み明けの出勤日。急に涙がとまらなくなった。
仕事に行くために着替えて、弁当を作り、化粧をした。それでも涙はとまらなかった。
何か悲しいことがあったわけでもない。
仕事に行きたくなかったわけでもない。
自分でも自分がよく分からなかった。
職場の上司に勧められ、初めて心療内科を受診した。「適応障害」と診断された。この世の中、適応障害という病気は珍しくない。誰にでも起こり得る病気だ。でも、私が……?信じられなかった。
一度は休職し、復帰するも再燃し、また働けなくなった。通っていた心療内科の先生とは折りが合わず、通えば通うほど、自分が追い詰められて苦しかった。
かかりつけの心療内科は家から少し遠かったが、歩いて通っていた。両足に長靴でできた靴擦れの後が今でも残っている。
安定して退院しても、不安定な収入から病状が悪化。その悪循環
病気になった、私の日々は一転した。
休職して実家に帰り、そこで受診した心療内科では入院を勧められた。入院中にいろいろな方が私の話を聴いて、一緒に考えてくれたと思う。
結局、憧れだった助産師の仕事は、ほとんど何も身に付かないまま退職することになった。次の仕事も何も考えずにやめてしまったものだから、今まで以上に地獄をみた。
知識も経験もない助産師を雇って指導できるほど余裕のある病院は少なく、なかなか就職が決まらなかった。本当にこのまま助産師の仕事を続けたいのかも分からなくなり、一旦は違う仕事にもついた。
ずっと考えていた。安定した収入がないことが自分の不安要素となり、せっかく安定して退院しても、病状が悪化してしまう。今となっては、その悪循環を繰り返していたと思う。
理由がないのに不安や焦燥感に駆られて、どうしようもない
そんな私を、育ててくれると言ってくれたある産婦人科の先生に出会った。私の病気のことや経験の浅さを知ってもなおかつ、私を受け入れてくれた。
そしてこの春に私は、助産師として再就職。次こそは、頑張ろうと思った。決して前ほど、休みや給料の待遇が良い病院ではなかったため、きつかったが、それでも私を受け入れてくれた病院や先生、スタッフの方がいるから、頑張りたかった。早く成長して一人前になり、私を支えてくれた全ての人に恩返しがしたい。その気持ちだけだった。
それでもその秋には、また体調を崩してしまい働けなくなった。自分の気持ちの甘さなのだろうか?どうして他の人と同じように私は働けないのだろう?ずっとそんなことを考えている。理由がないのに不安や焦燥感に駆られて、どうしようもない。
幸いにも、私は環境には恵まれていた。家族や恋人、友人がこんな私をどんな状況になっても支えてくれた。
その人たちは、「そうじゃないよ。頑張らなくていい。できることだけやればいい」。
そう言ってくれる。
それでも私は、その言葉に納得できず、また一人、不安と焦燥感に駆られる。私は、こんな私が嫌いだ。
「これが私なんだ」と受け入れられるのかもしれない。でも変わりたい
理由は分からなかったけど、この2年間思い返せば、ずっと泣いていたのではないだろうか。自分の病気の症状の1つが、「理由もなく涙がでる」ことだったが、仕事に行けなかった時、仕事を辞める時、仕事を探す時、新しい仕事を始めてもまたきつくなった時、ずっとずっと私は泣いていた。
私を支えてくれる人たちが言うように、「頑張らないで、私のできることだけをやる」。
そうやって私の人生を捉えれば、これが私なんだと受け入れられるのかもしれない。
でも、私は変わりたい。この2年間、ずっと考えた。
やっぱり助産師は、いい仕事だと思う。この世に産まれてくるために、お母さんも、赤ちゃんも、家族もみんな頑張っている。それを傍でお手伝いさせてもらえて、その幸せや喜びを分けてもらえるのだから。この先、自分がどうなっても、いつどんな時も、きっと私はこの思いにたどり着くのだろう。
だからこそ、私は変わりたい。自分が自分を好きだと、胸をはって言える自分に。2022年、私は変わる。
なりたいと思った自分に一歩でも近づけるように。両足の靴擦れの痕すらも、いつか自分の糧だと思えるように。私を支えてくれたすべての人に、少しでも恩返しができるように。
涙の2年間から、少しでも笑顔が増える1年になるように。私は私らしく、自分のペースで。
2022年、私の宣言。