高校のときから、折にふれて自分への手紙を書き続けている。
この間、大掃除ついでに久しぶりに、高校のときに書いた自分への手紙を読み直した。
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だいぶ時間が経ったからなのか、まるで別人のように感じた。とんでもなく視野が狭く、稚拙で被害妄想がひどいように感じた。
「○○ちゃんと比べられている」「多分○○ちゃんは私よりあの子が好き」「私は努力ができないから何をやってもダメ」「周りはみんな努力している」
自称進学校の信仰に染め上げられていたのもあるが、とりあえず誰かとの比較、被害妄想が頭を抱えるほどひどい。
ちょっとした否定や視線で傷つき、授業中やスクールバスでよく隠れて泣いていたのを覚えている。
ずっと手紙には「こんなことで泣かないほど強くなりたい」と書き続けていた。
だいぶ前に読み返したときは、相変わらず弱かったんだなぁと思っていた。変わっていない部分に腹が立ったりもした。
でも最近読み返したとき、あまりにかわいそうで涙が出た。私にはこんなふうに世界が見えていたのだ。こんな見え方をする世界で毎日戦っていたのだ。
こんな世界にいて平気な人なんていない。私がするべきは他人と比較して泣かないようにすることじゃなくて、私を檻の中から出してあげることだった。今ならそれがわかる。
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昔、学校で見せられた薬物乱用防止の啓発ビデオで、再現ドラマとして薬物を使った人の妄想の内容が描かれていたのを覚えている。
虫が出てくる、追いかけられるなど恐怖を与えるものだったが、私は「私もこういう妄想感じてるけどなぁ」と思ったことを覚えている。
なんなら、「なんでそんなことで泣くの」「大げさやなぁ」と言ってくる人たちに、私の世界をビデオにして見せてあげたいと思った。
要するに程度の違いだけなのだ。
私は人に比べられていると感じる。責められている視線を感じる。当時の私にはそう見えているんだから仕方がない。
それはもう、もともとの気質や育ちからできあがった世界なのだと思う。
そう思うと、全員が自分だけの妄想の世界を生きている。妄想や幻聴は病気ではなく、普通の私達の世界と地続きなのだと思わされる。
みんな同じ時代を同じ場所で生きていると思いがちだけれど、全員違う世界を生きているんだな。
見えているものがこれほど違うのだと、過去の自分を見ていても思うのだから、他人の世界なんて想像もつかない。
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だから、私は「認知の歪み」などという言葉を使われるのが嫌いだった。
正しい認知なんてない、みんな自分だけの世界を生きているのに、したり顔で「そんなこと○○ちゃんは思ってないかもよ」なんて言われると、うるさいなぁと思っていた。
私を大切に思ってくれている人ならそれが伝わるからまだいい。ただ、軽く相談した人や先生などが私の認知を矯正してこようとしてくることに腹を立てていた。
そんなこと私が一番分かっている。ただ、見えるものをどうやって見えないようにしろって言うの?そして、○○ちゃんが確実に思っていないとは言えないでしょう?それはあなたの認知でしょう?
私がどんな痛みや傷を守ろうとして、この思考に行き着いたのか、興味もないくせに。
私たちは自分にしか見えない世界を生きているのだ。それに正しいも正しくないもない。その人にとって生きづらい世界、生きやすい世界があるだけで、真実なんてどこにもない。ポジティブだってニュートラルだって妄想なのだ。
だからそんな私ができるのは、泣いている人の世界を尊重してただ隣にいることだけだなぁと、改めて実感する。
私がどうやっても感じられない痛みに思いを馳せることしかできない。
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私もきっと、誰かの世界を踏みにじって傷つけたことがあるだろう。それに対して今、心の底から申し訳ないと思う。
昔は「私のほうがしんどいのに」と思うことも多かったけれど、今はそんな断片的なところしか見ていなかったことに未熟さを感じている。私はその人の世界を感じようとしていなかった。
でもそれも私で、当時の私の世界の中ではそれしかできなかった。
それもまた、今なら許せる。
「強くなりたい」と書いていた当時の私に、今は「しんどかったね」と言ってあげられる。当時の私の世界に思いを馳せることができる。
「強くなった」のか分からない。今でもたくさんしんどいことはある。
でも当時思っていたのとは違うベクトルで強くなっているんだろう。どれだけ大泣きしても毎日ご飯を食べて寝て、また笑っている。いくら失敗しても変わり続けようとしている。
私はけっこう、しぶとくてネバーギブアップ精神が強い。
どれだけ凹んでも起き上がっているよ、強さってそういうしなやかさなのかもしれないね、と当時の私に伝えてあげたい。
弱いままでも案外生きていけるよ、ただそれを受け入れることが強さかもしれないと。
未来の私は、今の私にどんな言葉をかけてあげるのかな。