「がんばったね」「えらかったね」と家族が子どもの頭を撫でるその眼差しはとっても温かく、またそんな言葉に、にこにことまるで、まだその小さな体から魔法の粉が煌めいているかのように笑顔があふれる。
わたしの働く理由というものを考えてみると、「美しさ」を広げていくためであると思う。「美しさ」というのは、幸せそうとか綺麗とかそういうのとは少し違う。
それは、ああ生きてて良かったと思える希望と安心が入り混じった感情のこと。

優しさの輪が広がるように、「生きててよかった」と思える美しい瞬間を沢山つくりたい

人間は「生まれてきてくれてありがとう」と誰かのそんな希望からこの世に生まれてきたはずだ。
それでも、「人生しんどい」と思わずため息をついてしまうことや、一晩中泣きたくなることもある。友達に愚痴られて『もう学校に行くのは無理だ』と思ったり、親やパートナーと喧嘩が絶えなくて『もう愛せないかも』と感じてしまったり、他人の昇進や結婚なんか見えやすい成功体験を目にしては『自分なんて才能や魅力の微塵もない』という思考に陥ったり。しんどい状況っていうのは、どうにも心に余裕がなくなってしまって、自分にも相手にもぶんぶんと鞭を打ち鳴らしてしまう気がする。
そして、その痛みでもって感情を更に自分の奥底にぎゅうぎゅうと押し込み、パンパンに腫れ上がった心で世界を灰色にしてしまう。お先真っ暗じゃん、って。

私はこんなの不条理だと思う。だって、誰もが希望と愛でいっぱいに包まれて、名前だって付けられて、美味しいものだって食べてきて、少なくとも誰かに支えられて優しさを受けてきたはずなのに、真っ暗って。
どうして、と泣きたい気持ちになる。

だから私もそうだし、私の周りの人もそう。みんなが「生きてて良かった~」と思える「美しい」瞬間っていうのを、できるだけ沢山つくりたい。その人が、そんなふうに思うことができたら、隣の人に優しさを分けてあげることができて、ひょっとしたら、その輪は幾分にも広がっていくかもしれないから。

子供やその家族の支援をする私。「生まれてきてくれてありがとう」という希望を忘れずに

今のわたし。
発達や情緒に困りを感じている子どもや家族がどうしたら幸せになれるのかを考え、支援をする福祉や教育の分野で仕事をしている。小さい頃の私は、お母さんから「すごいね」と褒めてもらえるその一言が何よりも希望で、だからこそ、その関係が歪んでしまうと、それはしんどかった。

バブル時代に結婚をして、出産や育児を機に仕事を諦めた母は、余裕がないと「もし、あの時、仕事を続けていたら、出産をしていなかったら」と溢すことがあったし、私の成績が芳しくないと「もっと頑張れなかったのか」と責めることもしばしばだった。愛があるから期待が生まれる。でも、すれ違うとしんどくなる。辛い。

勿論、ずっと笑顔でいることなんぞ難しいし、辛いこともあるからこそ見えてくる世界だってある。
それでも私はやっぱり、愛情の原点というものが少なからず親や家族にあって、子どもたちには「生まれてきてくれてありがとう」「生きてて良かった」という希望を忘れずに持っていて欲しいと強く感じている。

優しい言葉が、子どもに届きますように。世界よ、平和であれ

よく、働く中で様々な親に「お子さんにどうなって欲しいと思っていますか」と聞くことがあるのだが、殆どの親が口を揃えていうのは「お金持ちとか、有名になるとか、頭が良くなるとか、そういうのではなくて。楽しく今の生活を送って、仲の良い友達を何人かつくって、好きなことに出逢って、将来誰かの何かの役に立てるような人になって欲しいんです」と。
そんな言葉を聞くたびに、つい涙が溢れそうになる。私もそう思われてきっと育てられてきたんだろうな。こんなにも優しい言葉が、想いが子どもにしっかりと届きますように。
そして、そんな想いを受け取った子どもが「生きてて良かった」と思えますように。

子どもがお母さんに「今日の夜ご飯なあに?」と聞いていたり、「明日はこんなことがあるから楽しみなんだ!」と何かの大きなイベントかのように明日の学校の時間割を報告していたり。そんな姿を見ると「美しいな、今日も」とクスッと笑みが溢れるのだ。世界よ、平和であれ。目の前の美しさが広がりますように。