世界の全てだったのに、今では距離の取り方が難しい、少しだけ気難しい存在。
嫌な思いをして、もう帰らないと思っても、完全に手放すことはできない。
近すぎると息苦しく、遠すぎては物足りない、それが私の地元。
◎ ◎
「〇〇さん家の睡蓮ちゃんじゃない!久しぶりね〜!」
地元を散歩していると私は知らなくても、私を知っている人はたくさんいる。
「今は何の仕事をしてるの?結婚する予定はあるの?」
高校生の頃はどこの大学行くの?大学の頃はどこの企業に行くの?先生になるの?
挨拶の次に飛び出してくるのは、決まって未来のステータスのことばかり。
私の実家はいわゆるその土地の地主的立場を担っており、かつ両親祖父母共に教職に身をおいていたため、地元は両親祖父母の教え子で溢れている。
由緒正しき、まではいかずとも、地元における私の家のイメージといえば、お堅くて、昔でいう正統派の人生を歩むというイメージのようだ。
そこに帰れば私は睡蓮から、〇〇さん家の、という肩書きがつく。
その肩書きに合うのは、いい大学、大企業に就職もしくは公務員になり、世間一般の真面目そうな人と結婚するというレール。
それが全てだと思っている人々は悪意なく私にお節介を焼きたがる。
顔見知りとはいえ、さすがに他人に真っ向から嫌な顔をするわけにもいかず、笑顔の面を常に肌身離さず持ち歩くことになる。
地元に帰ると決まって顔が凝るのはきっとこのせいだ。
◎ ◎
子供は環境に順応して育つというのは本当にその通りで、子供ながらに、家の特性を理解し、この家の大人に迷惑がかからないように、この家の名に恥じぬような人間にならねば、という感覚のもとあらゆる分野で努力をしてきたと思う。
ありがたいことに物事を器用にこなすタイプだった私は、努力量に比例した成果を上げることができていた。
成果は知らぬ間に拡散され、やはりあの家の子だから優秀だ、そう言って歩けば見知らぬ大人でさえも私を褒めてくれた。
しかしどう頑張っても地元というのは狭い世界なのだ。
外の世界を知っていくうちに、自分が大したことのない人間であることに気づいた。
上には上がいる。
大学受験も、第一志望には通らず渋々第二志望へと進学し、表向きは研究がしたいからと進学した大学院も、理由が就活に失敗したからだとは誰も知らない。
なんとか軌道修正した社会人生活ではあるが、思い通りにならないことばかりだ。
知らないところでいろんな挫折を味わいながらなんとか生きている私は、ただの人間だ。
それにも関わらず、地元に帰れば凄くて、真っ当な人生を歩んでいる人間になる。
所詮井の中の蛙だった私が、その家の人間として求められるイメージとのギャップに苦しみ始めたのは言うまでもない。
あの家の子として認識されることに違和感を感じて以来、私は地元との距離感が分からなくなってしまった。
それでも家族だけは私が唯一、いい子の仮面を脱ぐことができる心の拠り所だった。
両親はこの家に縛りたくないという思いが強いようで、私を1人の睡蓮という人間として自由にさせてくれた。
もちろん両親の期待に応えねばと苦しんだ時もあったが、一度失敗した時にあなたの人生なんだから好きにしたらいいと言ってくれたことで、無意識に感じていたわだかまりを解くことができた。
◎ ◎
そんな実家だったが、最近少しだけ距離を開けている。
というのも、地元の人間を見るような目で私を見つめる瞳があるのだ。
「お姉ちゃんもいい人と結婚したし、次は睡蓮ちゃんね〜。いいお相手はいるの?」
「会社で褒められたの?さすが〇〇家の子だからね〜」
そんな言葉で私を縛るのは御歳95になる祖母だ。
家に縛らない両親とは対照に、この家のイメージを誰よりも大切にする祖母の言葉が、ことあるごとに私を縛る。
急速に変わる社会の常識から取り残された地元で生きる祖母は、何十年も前の正統派な幸せをなんも疑いもなく私に押し付ける。
彼女に悪気はない。むしろ私の幸せを祈ってくれている。
それに、私が社会で活躍することは〇〇家の人間として至極普通なこと。
「おばあちゃん、私今のところ結婚する予定もないし、する気もないよ〜」
そんな風に言う私を怪訝な顔をする祖母を見るのが苦しくて、最近は家に帰るのも苦しい。
実家でさえも心落ち着く場所でなくなりつつある地元という存在を、いっそのこと切ってしまえばいいのではという人もいる。
しかし、いくら嫌な思いをしたと言っても、私に話しかける人は皆いい人なのだ。
ただ、私の世界の概念と少しだけ合わなくなっただけ。
狭い世界しか知らなかった頃は、その存在に助けられていたこともある中で、それらと完全に縁を切るということは全く想像ができない。
ただ、昔のような距離感では少し居心地が悪いから、少しだけ遠くから接することにする。
私は今年もまた、地元に帰るだろう。