真実ばかり見ようとすると文字数が多くなる。
それは文章も言葉も同じで、だいたい、「真実」というのは言葉裏、表情裏、行動裏、さまざまなものの「裏」であり、裏というのは見なくて良いものであり、よって言葉数の多い者は「面倒な人」としてパチリと片づけてしまわれることが多い。

その「パチリ」に若干傷つきながらも、文字数多人間(もじすうおおにんげん)は、文字数少人間(もじすうしょうにんげん)を追いかけ回す。文字で追いかけ回す。
そこに「真実」ないし「誠意」があるから、文字数多人間(以下、勝手に「私たち」とする)は執拗に追いかけ回すのだが、文字数少人間(以下、勝手に「彼ら」とする)は誠意なんて目に見えないものなんだから行動で示せば良いじゃないの、と反撃してくる。

……もっともだ。
彼らの言う通り、人と人との間に介在する真実やら誠意やら正直は、ほぼすべて行動で示せるものだ。私たちもそれは知っている。そんでもって行動で示されると、「ウム」と満更でもない感じで納得してしまう。
私たちだって別に、言い争いたいわけではないからだ。
私たちはただ、「腑に落ちたい」のだ。

◎          ◎

しかし残念なことに、私たちの膨大な言葉たちをすべて吸収して、その中の不満だけを汲み取って、しかも行動で解消してくれる人なんて一握りしかいない。
どれくらいの一握りかというと、本マグロの掴み取りで運良く手のひらサイズの稚魚を引き当てるくらいの一握りである。つまりほとんどいない。

私たちは文章に全てを詰め込むから、気が強いと思われがちだ。でも違う。すごく違う。
「文章の長さ」というのは、つまりは予防線の長さ・太さだからだ。
その長さ・太さは、優しさに繋がる場合も多い。人を傷付けないために、私たちは予防線を張る。

しかしそれが口喧嘩で発揮されてしまうと、途端にその言葉たちは「相手の抜け道を塞ぐ道具」になってしまう。
私たちは抜け道を塞いで、正論で相手を追い詰める。そして恥ずかしいことに、それに快感を感じてしまうこともある(これは私だけかもしれない)。

私たちは文章で物事を整理する。
だいたいシャワーを浴びながら整理する。言い返せなかったことを悔いて「あゝ~!」と叫びながらシャンプーをする。
それで得られるものはなにかというと、ない。

ないのだ。だって言い返す言葉が見つかっても、その相手はもう忘れているから。
そいつは必ず、私たちよりも良い味覚で翌日の朝ご飯を頬張って、私たちよりも良い柔らかさの太陽の下で出勤する。
悔しいなあ。

◎          ◎

でも私たちには文章がある。
文章になんの意味があるかと言われたら、ない。
ないのだ。だってぶつける相手がいなかったら、いたとしても反応がなかったら、それはただの独り言、ないしは日記だから。

でも私はそれでも、私たちに、日記をお薦めしたい。
「真実ばかり見ようとすると文字数が多くなる」と冒頭に書いたが、そういう人の長ったらしい文章って、結構面白い。
自分しか読まない日記であるのに、なぜかユーモアらしきものをぶっこんだりしている。

真実を追い求めてぐるぐるぐるぐると文章を繋げている私たちは、面倒臭い。
日記を書いていない人は、ぜひ一度書いてみてほしい。なるべく嫌なことがあった日に。
それで、3ヶ月後くらいに読み返してみてほしい。
すごく面倒臭くて笑ってしまうと思う。

それから、「どうしてこんなに面倒臭い感じの文章になってしまったのか」と考察&反省を始めたら、あなたは筋金入りの「私たち」だ。

◎          ◎

私は「私たち」のことが大好きだ。疎ましく思われても、面倒臭い人間であることをやめない私たちのことが。
恋人に振られても、上司と喧嘩しても、子供に煩いと言われても、どうか面倒臭い人間をやめないでほしい。

私は「私たち」のことを、唯一真剣に「真実」を追い求めている人々だと信じているからだ。
しかし、それをやめなかったことであなたが被った弊害に対して、申し訳ないけれど責任は負えない。
私たちは勇敢であるとともに、予防線を張っていなければ生きていけないからだ。