一人焼肉も一人回転寿司も、わたしにとっては日常だ。一人でコンビニに行くことと、何が違うのか分からない。

そんなわたしにとって、一人旅もハードルの高いものではない。寂しくないのかと尋ねられたら、寂しくないわけがない。でも、寂しさよりも好奇心や自由が圧倒的に勝つだけだ。

一人旅では、誰かと話して振り返ることがないから記憶の風化が早い

わたしが海外を一人で旅している最中、グループで旅行するときの何倍も警戒している。当然のことだし、自分で選んだことだけど、肩の力の抜けた男性グループを見ると心底羨ましい。

そして、一人旅を後から振り返るときに、記憶の風化が早いことに驚かされる。一人旅では、自分以外の誰かと話して振り返るという手段をとれない。そんなもの最初から与えられていない。最近は遠出する機会もめっきり減ってしまったが、次に一人旅をするときにはもっと鮮やかに記憶を刻み付けたい。

ここまで一人旅について語ってきたけれど、友人との二人旅を振り返っていきたい。二人旅の思い出なのに、今のわたしには友人と話して振り返るという手段をとれない。そんなもの与えられていない。

友人とは国内外問わず、二人で旅をした。目立つわけではないのに集団からはみ出がちで、人付き合いが苦手なわたしたちは気が合った。わたしたちは、旅の予定不調和を楽しんでいた。

わたしはあまりお酒が強い方ではないが、友人はお酒にめっぽう強かった。京都のカジュアルな料亭で日本酒を飲んだことがあった。わたしはマイルドにふらつきながら、友人とホテルに帰った。酔っ払っていたはずなのに、頭の片隅に板前さんの心配そうな表情がこびりついている。沖縄で泡盛を浴びるように飲む友人を眺めながら、骨付きチキンを頬張るわたし。あのときのわたしは、ビュッフェで元をとる心意気でひたすら食べていた。

モン・サン・ミッシェルのシードルが友人との「旅の記憶」を蘇らせた

海外旅行の写真を見返していると、モン・サン・ミッシェルでシードルを飲んだ記憶も蘇ってきた。わたしの中で冬のモン・サン・ミッシェルは凍えるほど寒くて、記念写真の一瞬ですら笑顔を作れない場所だった。でも、友人と二人でお酒を飲んだ場所でもあった。

「どんなこともいつか終わる」「一人が独りなのは当たり前だけど、二人でいても独りだ」いつからそんな風に考えるようになったのかは覚えていない。この考え方は小学校高学年の頃にすでに芽を出していて、中学生の頃には大木となっていた。

でも、悟りきったような考え方で武装したところで、本当は終わりに怯えている。終わりを想定して予防線を張っておけば傷つかない、そう思ってきた。本当にそうだろうか。きっと予防線があってもなくても、わたしは傷つくのだ。終わりはたやすく予防線なんて超えてくる。

突然、友人と疎遠になった経験は、わたしの考え方に拍車をかけた。だけど、そろそろ軽やかに捉えても良いかもしれない。友人とわたしは適切な距離をとっているだけだ。そうすることで友人を大切にできている。そして、何よりも自分を大切にすることができている。

友人と飲んだお酒は確かに美味しい。でも、「一人」で飲むお酒は?

友人と二人で飲んだお酒は確かに美味しかった。じゃあ一人で飲んだお酒は、どんな味がしたのだろう。わたしは、わたしに尋ねるしかない。一人旅では自分以外の誰かと話して、振り返るという手段をとれない。そんなもの最初から与えられていない。

思い返せば、一人で飲んだお酒だって美味しかった。福岡でもつ鍋と一緒に飲んだチューハイは、グラスの底に果実が沈んでいた。さっきまで冷凍庫で眠っていた果実は冷たくて、かじるとシャリシャリと崩れた。イースター島ではサンセットを眺めながらピニャコラーダを飲んだ。うっすらと酔いのまわり始めた指で、一眼レフのシャッターを押し、瞬間を切り取った。夏の北海道で味わうサッポロクラシックは、最高だった。真っ昼間から飲むビールは、なんでこんなに美味しいのだろう、そう思いながら手羽先を苦い泡で流し込んだ。北海道での日々は、わたしにたくさんの思い出と3kgの体重増加をもたらしてくれた。

もともと強くなかったお酒だが、さらに弱くなってしまった。そして、最近は遠出する機会も減ってしまった。けれど、わたしは誰に尋ねなくても分かっている。一人でも二人でもお酒は美味しい。そして、一人でも二人でも、旅はわくわくするような予定不調和をもたらしてくれる。結局、どんなこともいつか終わるし、わたしは独りなのかもしれない。

わたしの中に残ったものは、周りの人から贈られたものだ。でも、わたしが記憶に残すと自ら選んだものでもある。今夜は一人でご飯を食べに行く予定だ。半日後のわたしが何を食べ、何を飲むのか楽しみで仕方がない。