容赦なく幸せにしてくる人がいる。
目覚めた朝にはあたたかなコーヒーと微笑みを、お昼ご飯には美味しいパスタを、夜になったら花束とワインを。
日常がまるで特別なプレゼントみたいに、一秒一秒を煌めかせるひとがいる。
私の恋人はそんな人だった。
人と深く関わらずに生きる。その予防線をぶち破ったのが彼だった
私は孤独で不幸な自分が好きだった。
好きだった、というよりは孤独と不幸に慣れきっていたと言えるかもしれない。
自分自身が誰かと一緒にいる未来なんて描けなかったし、毎日自分が笑えるなんて想像することもできなかった。
生ぬるい日常の中で、誰かに傷つけられることも傷つけることも怖くて、人と積極的に関わろうとはしていなかったと思う。
誰かの人生に踏み込んでしまうことが本当に恐ろしかったのだ。
出会った彼は、そんな私の何重にも貼った予防線を、まっすぐぶち破ってきた。
「俺は、側にいるよ」
誰にでも言える一言、でも誰も守れない約束を、彼は果たそうとしていた。
私は力なく微笑んだだけで、またこの人もいなくなる、と信じて疑わなかった。
それからの日々は、私と彼の闘いに近いものだった。
精神的な病の私は、お酒を飲んでは暴れ、自殺をしようとしては屋上に立ち、何度も道端で泣き喚いた。
彼はその度に、私のことを強く抱きしめ、「大丈夫だよ」と囁いた。
私が何度振り払っても強く握られた手のひらは、いつも涙と汗でべとべと。
私が全て嫌になって飛び出したって、私が疲れ果てるまでどこまでも追いかけてくる。
死んでしまいたい、生きる資格が無いと叫ぶ私に、私の居場所はここだと、何度でも教えてくれた人だった。
信じて裏切られるのが怖かったから、彼の手を離してしまった
彼に心を開こうと思った。
全て身を委ねてしまおうと思った。
けれどあの頃の私は用心深くて、信じてまた裏切られるのが怖くて、彼の手を離してしまった。
「あなたは優しすぎる」という一言を残して、私は彼の目の前から去った。
私は世界一臆病者で、愚か者だ。
愛してくれる、ただそれだけが怖くて、無償の愛は存在しないと信じきっていて、彼の前から逃げたのだ。
けれど、遅かった。
私は彼に恋をしてしまっていた。
彼の元から綺麗に去ることはもうできなかった。
私はきっと立つ鳥跡を濁すタイプなのだろう。
最後の思い出に、と寂しげに笑う彼から提案された旅行を、断ることができなかった。
手を繋いで、笑いあって過ごした。でも、二人の写真は撮らなかった
最初で最後の二人旅。
ビールを持ち寄って車内で乾杯しながら向かう温泉地は、たまらなく楽しみで、たまらなく哀しかった。
絶景スポットを見ては写真を撮り、変なご当地人形を見つけては写真を撮る。
お互い約束ごとのように、二人の写真は撮らなかった。
終わりのはじまり。
はしゃぐ二人はまるでまだ恋人同士みたいで、と思うたびに強く手を握った。
晩ご飯はとても美味しくて、にこにこ笑いながら食べた。
夜は布団の中で抱き合って眠った。
さよならが待っていることを、口にはしなかった。
早起きして温泉に入ったけれど、身体は暖かいはずなのに、心は芯から冷えていた。
誰も知らない、私と彼だけの思い出が増えていくことが、嬉しくて、悲しかった。
帰りの電車で手を繋いだ。
終着駅までの期間限定だ。
愛しくてしょうがない手を、離した時、恋は終わった。
いつか大人になった私から伝えたい。「ありがとう」と「愛してる」
数年後、見返した写真フォルダには、旅行に行った証が確かに残っているはずなのに、相手が誰か思い出せないように上手くできていた。
街で見かけたら、今の私はなんと声をかけるのだろう。
愛された記憶が私を大人にするのなら、いつか笑って伝えたいことがある。
あの時言えなかったありがとうを。
あの時言えなかった愛してるを。
あの時のあなたは、私の中で生きているから。