「ここでおじいさんになるのは無理だと思う」
「ここには僕の懐かしいと思うものが何もない」
その夜、彼の言葉を聞いてわたしは泣いた。台所に立ち尽くして一人で泣いた。しばらく一人で泣いていると彼がやってきてわたしの体を固く抱きしめてくれたけど、それで鎮まるほど小さな悲しみではなかった。

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翌朝、わたしは泣き腫らした目のまま眠りから覚め、布団に横たわりながら開いたまぶたからはまた涙が滲んだ。通勤のために家を出て、道すがら泣き、職場に着いて働いて、外回りの最中に泣き、仕事をし、帰宅途中はなんとか耐えていたけれど、帰宅して彼の顔を見てまた泣いた。彼の顔を見ると、昨晩のやり取りを思い出して悲しくなってしまうのだ。
そして彼の顔を見て流す涙は安堵の涙でもあった。
「ああ、まだふるさとに帰らないで、ここにいてくれた」という安堵だった。

そんな生活を2日ほど続けてまた夜、わたしは何を思ったか白米も副菜もなく好物である秋刀魚を3尾焼いて全部一人で平らげた。とても美味しかった。ストレスが溜まると過食に走るたちなのだ。
秋刀魚の美味しさに我を取り戻したわたしは、もう一度現実と向き合うことにした。彼が、わたしの夫が、いつかここから去ってしまうかもしれないという現実に。

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夫のふるさとは、ここ日本からおよそ9千km、地球を1/4周したくらいのところにある。1回帰省するのにかかる費用で、東京—新大阪ののぞみ指定席に10回以上、レートによっては下手すると20回も乗れるだろう。仮にわたしと大喧嘩したって、「実家に帰らせて頂きます!」などと家を飛び出すこともできない遠さである。

もちろん、わたしと住むこの家を彼が心からふるさとと思ってくれる日が来てほしいし、そうなるように日々努力しているところだ。だが、残念ながら「ふるさと」はそう簡単に増えもしないし減りもしない。

夫とは数年の国際遠距離関係と、合間あいまに挟まる複数回の同棲生活を経て、先日ようやく安定して同居するに至った。同居の場所として自然に選ばれたのは彼の母国ではなく、わたしの母国日本である。いったいなぜか。お互いの語学力、職種の柔軟性、過去の同棲経験を踏まえた総合的判断……とも言えるが、これらは核心を突いていない。
結局、わたしが日本を離れたがらなかったから。これに尽きると思う。
ふるさとを捨てる覚悟がわたしにはなかったのだ。だから彼にその荷を肩代わりしてもらった。ずるい選択だ。
とは言え彼も日本での生活には自信があった。過去に日本に長期滞在したのも一度や二度のことではない。住み始めても、特に問題は出てこないはずだと、二人とも思っていた。

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「ここには僕の懐かしいと思うものが何もない」
ある夜、彼と話し合いをした。数日にわたって彼が何か言いたげなまま塞ぎ込んでいて、これはパートナーとして本心を聞き出さなければと使命感に燃えていたわたしは、今思うととても滑稽だ。
実際に聞き出してみると、ずっと日本に住み続ける自信がない、いつか自分のくにに帰るかもしれない、と言う。
一緒に暮らして、生きて、年を取って、一緒におじいさんおばあさんになりたかった。ここではおじいさんになれないってこと?と聞くわたしに、彼は小さく頷いた。

ここには懐かしいと思うものが何もない。こんな風に言う人を引き留める方法があるなら教えてほしい。
彼の言葉はショックだったが、おかげでわたしはようやく、遅すぎる気づきを得ることができた。「異国で生きる」のがいかにシビアかということ。そして自分がこの問題と、これまで全く真剣に向き合ってこなかったことに。
異国で生きること、それはふるさとを失うことなのだ。
ここでは年を取りたくない、死にたくないと思う場所で命を終えないといけないかもしれない、ということ。
自分の根っこに全くないもの、馴染みのないものばかりに囲まれて生き、死んでいくということ。
いくら物や情報のグローバル化が進んだって、人の心はそこまで急速に進化できない。
ふるさとは懐かしさそのものだ。その感情は普段意識する以上に根強く、人の基礎をなしている。だからこそわたしだって、自分からここを離れようとしなかった。

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その後夫とはもう一度その話をして、特に結論の出ないままとなっている。人生って難しいね、と何度も言った。
時間が薬となって、彼がここを第二のふるさとだと思ってくれるようになるのが一番良い。でも、そんなに上手くいくばかりでもないだろうとわかっている。
わたしがふるさとを去る覚悟をするのか。お互いがお互いのふるさとで生きるしかないのか。都合良く、何かミラクルな折衷案が見つかるだろうか。
彼を失うくらいならふるさとを捨てる方がましだ、と断言できれば良かったが、残念ながらその自信はない。彼もそのつもりでこっちに来て、それで今こうなのだ。二十数年生きてきて、ふるさとの存在の重さを、こんなに思い知らされたことはない。