思い起こせば、文章を書くことに抵抗を感じたことは、人生で一度もなかったかもしれない。手紙も作文も、エッセイも小説も、どの時代どの媒体であっても楽しさを感じていた記憶しかない。
だからこそ、改めてどうして私は文章を書くのか、そしてそれについてなぜ抵抗がないのか考えてみることにした。

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時を遡ること10数年。ようやっと“単語”から“文章”を作り、意味を理解できるようになった歳のころ、私は従兄たちを交えて祖父と言葉遊びをしていた。祖父が「雪が溶けたら何になる?」そう問いかけると、私よりもいくつか年上の従兄たちが口を揃えて「水になる!」と答えていた。私はその従兄たちを不思議そうに見ていたらしい。

そんな私を見つけた祖父は私に目線を合わせてゆっくりと言った。
「雪が溶けたら何になる?」
その心配りにようやっと私は口を開く。
「……春になる」

この時からだろうか。“言葉”というものは、とても面白いと感じ始めたのは。
言葉は、いつ、どこで、誰が紡ぐかで、意味合いが変わること。それは時として不便さを感じる瞬間もあるが、だからこそ面白いと私は考えていた。
私が文章を書くことに抵抗がないのは、仮に自分の思ったように伝わらなくても、それを面白いと捉え、そして自分に吸収する準備ができているからかもしれない。

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もちろん、これができているのは祖父のおかげだ。先ほどの「雪が溶けたら何になる」という問いに、私は「春」という答えしか持っていなかったが、従兄たちのおかげで「水」という答えもあると知った。たぶん、従兄たちも私と同じことを感じただろう。祖父はそのことをわかってきっとあのような言葉遊びをしてくれたのだと思う。

同じ言葉を聞いても違う捉え方があること、そしてそれが間違いではないこと。そのことを幼き私に祖父は体現してくれた。

文字を覚えたばかりのときには手紙を、小学生になると教科書で初めて見る漢字や慣用句を使い恰好をつけた作文を書き、中学生では意見文コンクールなどに参加した。そして高校生のときには、創作という形で文章を綴ったこともある。私の青春時代は文字と共にあったと言って過言ではない。

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大学生になったある日。祖父から電話があった。
高校生で上京した私は、祖父との連絡は基本的に手紙でしていた。それも年に数回だけで、密に連絡を取っていたわけではない。けれど、その日は珍しく電話があった。
私は少し違和感を覚えながらその電話にでた。なんてことない近況を互いに話し、少しだけ元気のなさそうな祖父に「ちゃんと冷房つけて寝てね」なんて言ったのを覚えている。祖父は受話器の向こうでどんな表情をしていたのだろう。

2日後、祖父は亡くなった。そこで初めて納得がいった。わざわざ電話をしてきた理由を。
急いで故郷へ帰り、葬儀に出席した。棺に入った祖父に触れ、「おじいちゃん冷房ききすぎだよ」そう泣き笑う私を見た従兄たちは、言葉を失っていた。

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それからしばらく私は文章を書くことをやめた。仕事が忙しいというのはただの言い訳だった。文字通り、心を亡くしていたのかもしれない。
けれど、体調を崩してどうしようもないときに、机の奥底から祖父からの手紙を見つけた。
「あなたの紡ぐ言葉が嬉しくて手紙を書いてしまうのです」
そう書かれた手紙は、私が亡くした心をよみがえらせてくれた。

それからというもの、祖父が生前、川柳や短歌を嗜んでいたことを知り、私も新たな方法で文章を綴るようになった。そして、今このエッセイを書いている。
私が文章を書く理由は、きっと単純に“言葉”が楽しいと感じているからだと思う。そしてそれを教えてくれたのは間違いなく祖父なのだ。