「あの時はごめんね。母さん、子育て下手だったから」と、21歳になった娘の私に母は言う。
私たち親子は、うまくいかないことの連続だった。でも私は母の子育てが下手だったとは思わない。こんなにも育てにくい子供だった私が大人になれているのだから。むしろ、一緒にたくさんの問題を乗り越えてきてくれた母は、子育て上手だったと思っている。
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私は幼いころからおしゃべりな性格だった。でも、話すのはどうでもいいことばっかり。本音を隠すためにおしゃべりなところを他人に見せていたのかもしれない。
私は本音を言うのがとても苦手だった。大切な人になればなるほど、わかってもらえないかもしれない、否定されるかもしれない、と怯えて本音を言えなかった。
それゆえに母とはすれ違うことが多かった。小学校で流行っていたチャームのついたえんぴつを本当は買ってもらいたかったとか、勉強のためのゲームのソフトより友達がやっていたマリオカートのソフトが欲しかったとか、そんな些細なすれ違い。
最初は小さかったすれ違いも、年を重ねるごとに大きくなっていった。
思春期には、いじめられているから学校に行きたくないとか、生理痛がしんどいから学校を休みたいとか、一番言いたい相手だったはずの母に私は言えなかった。
いつも私が口を開くのは限界を迎えてからだった。事態が大ごとになって隠せなくなってから母に伝えていた。毎回「何でもっと早く言ってくれないの!」と母は言っていた。
私は心の中で「私だってなんで言えないのかわからないよ」と大きな声で叫んでいた。でも口から出てくるのは「ごめんなさい」の一言だけだった。
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そんな私の性格は、高校を卒業し実家を出てからも変わらなかった。
「実家のマーマレード煮が食べたい」
ある日、私は一言だけ母にLINEを送った。
「いつでも食べに帰っておいで」と、母から優しさの詰まった返信が返ってきた。でも、次に母と言葉を交わしたのは実家ではなかった。
そこは無機質な病院のベッドの上だった。なんで地元にいるはずの母がここにいるんだろう?と疑問に思っていたが、意識がはっきりしてくるとだんだん状況がつかめてきた。そして、私は自殺に失敗してここにいるのだと悟った。
この場に母がいるということは、多分全部知られていると思った。だから私は必死に笑顔を作って、「遺書まで書いたのに自殺失敗しちゃった」と茶化すことしかできなかった。
「実家のマーマレード煮が食べたい」は、死んでしまいたいほど追い込まれた私の静かなSOSだったのだ。母は「気づいてあげられなくてごめんね」と何度も言っていた。言われるたびに「ちゃんと言えなくてごめんね」と私も謝った。
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自分の死と向き合う中で、私はあることに気がついた。それは、「別に本音を否定されても私が死ぬわけではない」ということだ。
今までの私は「母に否定されること=自分の一部が死んでしまう」と思い込んでいた。でも実際はそんなことないと、この時初めて気がついた。
それからは少しずつ「あのね、実はあの時……」と過去の私の本音を母に伝えるようになった。過去の私の気持ちを伝えることで、今の私の本音を伝える練習になっていた。
母は「あの時、ちゃんと話を聞いてあげられなくてごめんね」「あの時気づいてあげられなくてごめんね」と言うけれど、「お母さん、あの時ちゃんと伝えられなくてごめんなさい」。私はいつもそう思っている。まだ、言えないことも多いけれど、私は少しずつ母に本音を伝えられるようになっている。
それはきっとお母さんが私と向き合い続けてくれたおかげだよ。
お母さん、いつもありがとう。