言葉にするのは、とても難しい。
だから文章を書くのは、とても難しい。
猫の鳴き声の表し方が国によって違うように、同じりんごを描いた絵のタッチが人によって違うように、そこにあるものをそこにある通り言い表すことは、とても難しい。

◎          ◎

特に人の気持ちを言葉に表すのは、かなり難易度が高いとわたしは思っている。
泣きたくなる、とだけ言ってもその根っこにある気持ちはわからない。反対に「嬉しい」「悲しい」と気持ちの名前を口にしても、その表現は人によって変わってくる。

以前好きだった人に、「きみは1個の感情に500個くらい表現がありそうだけど、俺つらかったらツラ〜!しかないし、嬉しかったらウレシ〜!しかないもん(笑)」と言われたことがある。
その人のそういうあっけらかんとしたところが好きだったけど、同時に虚しくもあった。
わたしの発する言葉の一つ一つが、単純な形に姿を変え、その人の中に取り込まれているような気がしていたからだ。
この虚しさには、言葉にする難しさが確実に関係していたと思っている。

また、わたしがあること(何のことだったか詳しくは忘れてしまったけど、悲しいことだったと思う)について友達に話した時、その子の「わかる!そういう時ってこう思うよね」という返事に素直に頷けなかったのも、この難しさのせいに違いなかった。
彼女の言っていたことは、わたしの思っていたことと全く違っていたわけでもなかったのに、なにかが違った。なぜかしっくりこなかった。わたしの脳内では、「違う、そうじゃない」と歌が流れた。

◎          ◎

だからわたしはいつも、わたしの気持ちをそのまま言い当てることができる言葉を探している。
文章にする時は、読点の位置や改行なんかも気にしている。どこを開ければ、どこを詰めれば、気持ちに声や呼吸が乗るだろうかと考える。文章として美しいかどうかは関係ない。
綺麗な形に整えたいんじゃない。歪な形は歪な形として、そっくりそのまま残しておきたい。

そうすることで、初めてわたしはわたしの気持ちを「確かにそこにある」と認めることができるような気がしている。かつて昔の人たちが妖怪に名前をつけることで、その存在を認めたように。
そしてわたしは自分の感情を「そこにある、そういうもの」として自身に落とし込んで、「いまわたしは嬉しい/悲しいのだ」と実感することができる。

言葉にするのは、とても難しい。
だから文章を書くのは、とても楽しい。
脳内の辞書から言葉を探す。パズルのようにあれこれ当てはめてみては、これじゃないと悩む。時には自分の脳内から飛び出して、本、テレビ、歌、ほかの誰かの脳内辞書などから答えが見つかることもある。

◎          ◎

わたしにとって文章を書くということは、気持ちに形を与えること。
長くてまとまりがなくても、拙くて見栄えが悪くても、それをそれとして目に見える姿に変えること。
気持ちは気持ちのまま、言葉は言葉のまま、「それ」として認めるために。要するに、つまり、みたいな言葉で縮められるわけにはいかない。
だからわたしは今日も、シンデレラが履いたガラスの靴のようにぴったりと、わたしの気持ちにあてはまる言葉を見つけたくて、文字を連ねる。言葉を重ねる。