私は文章を書くことが嫌いだ。そのうえ、コミュニケーション能力も低い。
初対面の人には人見知りをしてしまう。だからこそ、対面のときでも表情は硬かった。中高のときによく言われたのは、「怒ってる?」とか「機嫌悪いの?」とかである。その度に胸をえぐられるような心地であった。無愛想なことを自覚しているがゆえ、相手に痛いところを突かれていた。

自分の想いを上手く言葉に表せない、行動にも表せない……となると、困ったことになる。少女はそのうち本心を誰にも打ち明けず心を閉ざすようになった。これぞまさに黒歴史。
特に中学の頃、毎日がパッとしなくて生きがいも無かった。楽しい学生生活とは程遠い現実。私は何のために生きているのか。笑うって何だろう。ほぼ言葉を交わさずに自分の表情筋が日々衰えていくばかり。

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そんな私を一変させる出来事が起こったのは、ある年の年末、家族で大掃除をしていると箪笥の引き出しの奥から錆びついたお菓子の箱が。蓋をとると、そこには大量の手紙。その瞬間、幼い頃の記憶が走馬灯のようによぎった。
「あ、懐かしい!覚えてる?」
箱を抱えたまま暫く立ち止まる私に、話しかけてきた母の声でふと我に返った。
そうだった、私、文章書くこと好きだった……。

「実は捨てられなくてね。これ全部保管してたの」
その言葉通り、お気に入りだった封筒にきちんと入れられている手紙から、スーパーの特売のチラシの裏に書かれた手紙まで、多種多様に文字が書かれている紙が幾つもあった。「こんなに沢山。紙きれなんて捨ててもいいのに……」と言いつつも、そこには嬉しさも入り混じっていて。思春期さながらの照れ隠しで言い放った言葉だった。

母は「そのうち分かるから。我が子から貰ったものって捨てられないの。形に残るものは尚更ね」なんて言うから、自分を必要としてくれる人もいるのかと少し元気が出たものだ。

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早生まれのためか、私は身体の発達が遅かった。幼稚園に通っていた時も周りの子より一回り小さくて、歩くことも喋ることも遅い方だった。そんな子がなぜか平仮名を覚えることだけは早かったのだから驚きだ。

文字の練習をきちんと始めたのは年長の頃、4歳のときだ。文字を覚えてからは自慢するかのように見せびらかしていた。「自分の名前書けるよ!すごいでしょ」から始まり、文章を作れるようになってからは、「ママいつもありがとう。だいすき」のお決まりの文まで。

小学校低学年になれば、「いつもおいしいごはんに〇〇の話し聞いてくれてありがとう。お手つだいもするからこれからもよろしくね」と好きな理由まで付いてくるように。
とにかく文字に起こして書き留めておく子であって、それを受け取って喜んでくれる母の姿が嬉しかったのだ。

そう、私が文章を書くことが好きだったのは、誰かの喜ぶ顔が見たいから。その人を笑顔にしてあげることが私の役目なんだと、当時好きだった漫画の主人公に照らし合わせて勝手にヒロイン気分を味わっていた。その時、あの頃の自分は毎日が楽しくて笑顔の絶えない子だったことに気付かされたのである。

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「よし」
私は手帳に今の自分に足りないことを書き連ねた。
笑顔、元気、明るさ、目を見て話す、会話を続ける、他人に興味を持つ、自分に自信を持つ……。今は難しくても出来るようになるはず。

その日から、日々の出来事も嬉しかったこと悲しかったこと全部含めて文字にして起こすことにした。そうすると一度自分の中でリセットされて客観的になれた。冷静に自分を見つめ直し分析することができる。

そのおかげか、今の私は変われたと感じる。
人との会話も苦ではなく、今ではバイトで接客業をするまでに。常連さんと話すことも好きだ。最近の顔つきも心なしか明るくなった。あれから心を打ち明けられる大事な友人もできた。

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そんな私が今もなお、心がけていることが一つ。時々、自分と関わってくれる人達に日々の感謝の気持ちを文章にして書いて伝えること。言葉にすると恥ずかしいことも、不思議と文章にすると書けてしまうものだ。

文章を書くということは不思議な力を持っていると感じる。文字離れが進んでいる現代において考え直すきっかけになるかもしれない。
一度、その場で紙とペンを用意して、数分でいいからSNSと離れ、周りの人への日々の想いを綴ってみて欲しい。何か気づけなかったその人の素晴らしい一面に、きっとあなたも出会えるかもしれない。