私は、人と話すことが好きだ。
すごく、おしゃべり、なのだと思う。人といるときは基本7:3くらいの割合で私が話している。誰か人がいる状況で静かにしていなければいけないことがすごく嫌。
私は、文章を読むことが好きだ。
特に小説が好き。分けて読むことはしたくなくて、全部一気に読みたい派。読み終わった後の、日常生活が小説の中、みたいな感覚がすごくすごく好き。小説を読み終わった後3日くらいは、なぜだかは分からないけれど丁寧な暮らしを試みる。でも3日で飽きる。絵にかいたような、三日坊主です。
私は、文章を書くことは普通だ。好き、でも、嫌い、でも、ない。
そもそも私はいつ文章を書いてるっけ、文章ってなんだろう。学期末のレポートって文章?じゃあ、嫌いかも。でも、小学校の時に書いた将来の夢って作文も文章か。あれは書くの楽しかった。感想文とか作文は、好きかも。
その小学6年生の時に書いた、自分の将来の夢についての作文。あれはすごい覚えてて、いや何書いたか正確に覚えているわけではないんだけど、でも思い出として、というか経験として、心に残ってる。
自由に書いた作文が、そのまま卒業文集に載った
小学校の卒業文集のテーマが、自分の将来の夢、で。作文用紙1枚分くらいに収めるように書かなきゃいけなかったけど、その頃私は全然文章書くことは好きじゃなくて、純粋に嫌だなって思ってた気がする、確か。しかも、その時の私には自分の将来の夢がなかった。
だから、何を書くかも、どんな感じで書くか、もとにかく何もわからなくて、わからないことは嫌いだから嫌だった。
でも、提出期限ギリギリになって、「将来の夢がないこと」を書けばいいんじゃない!?って気が付いて。文章も、ヘンに取り繕わずに私のありのままの言葉で書いた。文章の構成とかも、「将来の夢はないけど、小学校で学んだことを書いて、私はこの経験をもとに頑張って生きていって、いずれ将来の夢を見つけたいと思います」ってしたら伝わりやすいんじゃないかって全部自分で考えた。
それで先生に提出したら、字の直し以外は添削とかほぼなしで、もう一回字だけ書き直して本番書きしてそのまま卒業文集に載った。この時私は、全部自分で考えたことが認められたのが嬉しかった、例えるならテレビでやってる格付けで才能アリ!って言われたときの嬉しさ、みたいな。言われたことないからわからないけど。
とにかく、文章の内容も、言葉も、構成も。全部自分で考えた、良いよって言ってもらえた、その経験は心の中にずっとある。
自分で考えたものが認められた。貴重な経験だった
大人になるにつれて、文章を書いて褒めてもらうこととか、良いねって言ってもらうことって、なかなか無くない?自分の感想とか、自分の経験を文章として書く機会って、授業のコメントシートくらい。それこそ小学生とか中学生の時は書く機会がたくさんあったけど。
私は小学生の時にこの経験をしなかったら、文章書くの、何となく好きじゃないまま、文っていうもの自体があんまり得意じゃなかったと思うし、そしたら国語の時間とか好きじゃなかったのかな、とか、そしたらそしたら小説もあんまり読まなかったんじゃない、とか。話が大きくなりすぎたけど、考えられるよね、こんなことも。
今は、高校の時はお昼ご飯食べた後の国語は眠くてあれだったけど、国語は好きだし、小説を読むことも大好き。だから今思い返すと、この小学生の時の経験は貴重なものだったと思う。
私は、文章を書くことが好き、かもしれない。
思い出した昔の記憶と、この文章を書きながら、そんなふうに思った。