「ああいうの、簡単に捨てられないからさ。しばらくはとっとくと思う」
彼は困ったような、寂しそうな顔でつぶやいた。
別れを切り出したのは私だった。これが初めてじゃない。付き合って5年、それまでにも何度か別れ話をしたことがある。どれも直接顔を見て話し合ったら、彼の言葉に流されてしまって、結局なんとなく付き合い続けることになっていた。
今回は全て、文面でやりとりをした。もうきっぱりと決めていた。流されなかった。とても長くかかったけれど、彼も離れるという決断に納得してくれた。
最後はお互いの部屋に残っている私物を返さなきゃね、と久しぶりに会った。私の部屋でお茶を飲みながら、時間は意外にも穏やかに流れた。
文字に気持ちを乗り移らせた数々の手紙。もう捨ててほしいな
彼はふと思い出したように言った。
「ああ、今までにたくさんもらった手紙、どうしたらいいんだよ。まだ捨てられないよ」
ああそうか、私は彼の元にたくさん思い出を残してしまったな。自分の文字たちに思いっきり、気持ちを乗り移らせてしまった。酷なことをしたと後ろめたさを感じたけれど、同時に冷たい気持ちになった。
彼の気持ちは私には分からないな。だって彼が手紙の返事を書いてくれたことは一度もない。
もらったものはそれなりにあるけれど、処分に困るくらい彼の気持ちが乗り移ったものは、私の手元には何も残っていなかった。
「できればもう、捨てて欲しいな。大事にとってても仕方ないでしょ?」
冷たい返しだけれど、これが正しいと思った。
私がしたためてきた手紙はこんなに重なり、こちら側には何もない
いつの間にか、彼の愛情をどう感じていいか分からなくなっていた。好きだと言ってくれてはいても、言葉だけが通り抜けて、実感することができなかった。
相手のやることに興味を持つとか、少し前にした話を覚えているとか、いつか一緒にこの場所に行こうねって話をするとか。そういう、私が大事にしてた小さなこと、彼は気付いていただろうか。
その中の一つが、手紙だったと思う。
付き合っていた頃は、私だけが書いているなんて、わざわざ意識するはずもなかった。ただ書きたくて書いていた。拙い文章でも、彼が読んで、机に大事にしまってくれるのが嬉しかったから。
彼に言われてはじめて、私がこれまでしたためたものがこんなに積み重なっていることに気がついた。そしてこちら側には何も残っていないことも。
話しながら、テーブルの上の紅茶の入ったマグカップをぼうっと見つめて、正面にある本棚に目を移した。その上には、私が大事にしているものがいくつも飾ってある。
友達と撮った写真とか、人からもらったポストカードとか、アルバムとか。
でもその中に、彼とのものは何一つなかった。私には、離れる準備ができすぎていた。
もし新しい彼と別れることになったら、手紙の山を前にどうするだろうか
思い出の断捨離はあまりにも簡単だった。
それから少し時が経ち、私には恋人ができた。遠距離だから誕生日プレゼントとか、クリスマスプレゼントとか、贈り物のやりとりは基本的に郵便になっている。それに添えて手紙を書くと、特徴のある几帳面な字で、返事がかえってくる。
もらった封筒を開けるのはわくわくするけれど、ふとしたときに、縁起でもないことを考えてしまう。
もし2人が別れることになったら。
お互い、手元に残った手紙の山を前に途方に暮れるのだろうか。それとも今度は私が、「自分はもう捨てたから、あなたも捨てて」と言われてしまうのだろうか。
あれ以来、彼とは一度も会っていない。捨てて欲しいと言った手紙を彼が結局どうしたのか、私には分からない。