初めての引っ越しを機に、「過去のもの」の断捨離をした
最近、生まれて初めての引っ越しをした。
いや、私が二歳のときにしているから『生まれて初めて』とは言えないかもしれないが、記憶にないからこの間の引っ越しが実質初めてということにする。
引っ越しをするにあたって荷造りをした。いや、これは訂正する。『荷造り』よりは『断捨離』のほうが合っている。
私はこの機に、今必要のないものをすべて捨てたからだ。
ミニマリストに憧れているというわけではない。私は読書が好きだから本はたくさん持っているし、もちろん捨てる気なんてさらさらない。
ただ、あまりにも過去のものを持っていると、過去にとらわれている気がしてならないのだ。
前に進めない――そんな気がしてしまう。
前に進もうと決意した私が、唯一捨てられなかった「手紙」
そんなこんなで始めた断捨離。過去に別れを告げ前に進むと決意した私だったが、唯一捨てられないものがあった。
昔からずっと捨てられないもの――それは、手紙だ。
人の想いの詰まった手紙を、私はずっと捨てられないでいる。
だって、無下にはできないだろう。たとえ今つながりがなくとも、当時の私が大切に想っていた関係が手紙の中には残っている。
私一人の問題ではないから、手紙を捨てられないのだと思う。
手元にある多くの手紙は友人からのみならず、小学生の頃の担任の先生や母からのものもある。
特に、母からの手紙はとても大事なものだ。
そもそも母からの手紙は、捨てようと思ったことがない。
私が誕生日を迎える度にくれる手紙――確認すると十一歳の誕生日からもらっていた。この手紙は、女手ひとつで私のことを育ててくれた母からの大切な贈り物だ。捨てるなんてことは一生できない。
そういえば、私たち(私だけでなく母と妹も)の断捨離の話を聞いた祖母も、ちょうどいい機会だと断捨離をしたと言っていた。祖母はものを捨てることが苦手な人で、「いつか使う」といろいろため込んでいたらしい。
その途中で祖父母の家に顔を出した私は、祖母の断捨離を少しばかり手伝った。祖母の持てない重いものだったり、二階に作ったゴミを外へ移動させたり、要は祖母のできない力仕事をしていたわけだ。
幼い頃の私が書いた手紙が、祖母の元に残っていたことが嬉しい
その中で祖母は、幼い頃の私が送った手紙を見つけた。
小学校低学年のときに、誕生日を迎えた祖母に向けて書いたものだろう。つづってあった字も文章もまだ拙く、祖母の似顔絵だろうイラストも描かれていた。きちんとした便箋にではなく、ただの白い紙にクレヨンでかいただろう文字とイラスト。
はっきり言ってひどいものだった。いくら幼かったとはいえ、私は自分を許せない。
もっとうまく描けただろう、もっとうまく想いを伝えられただろうと、二十歳になったとはいえまだ子供っぽい私は、そんなことを考えてしまう。
けれど祖母はそんな手紙を今も大切に持ってくれていた。
それが純粋に嬉しかった。
祖母にとって私が初めての孫だからかもしれない。祖母も私と同じように、ただ単に手紙を捨てられなかっただけの可能性もある。
それでも、当時の私が一生懸命に書いただろう手紙が祖母の元に残っていたという事実が、どうしようもなく嬉しく感じるのだ。
いつか誰かが私の部屋で、いつかの自分が私に宛てて書いた手紙を見つけたら。
その人にとってそれは、恥ずかしいことかもしれない。もしかしたら、私に対して怒りをあらわにするかもしれない。
けれどそれ以上にその人が、祖母の部屋で自分の書いた手紙を見つけたときの私のように、嬉しいと感じてくれたら――。
だから私は、手紙を一生捨てることができない。