私の物書きの起点は、10代序盤に始めた日記である。
始めた、という漠然とした表現よりは、「私の境遇や性質が、必然的に私を『文章を書く』ことへと駆り立てた」と言う方が正確かもしれない。日々の出来事の単なる記録に留まらず、それらの出来事から自分が感じたこと、そして結果的に自分の生きる意味を問いかける内容を、同居する家族の目を必死で盗んででも、当時の私は書かざるを得なかったのだ。

◎          ◎

心無い言葉を浴びせる毒親、理解を示さない周囲の大人、学校での上手くいかない人間関係……。八方塞がりだった私は、唯一の頼みの綱である日記帳で、あらゆる感情や思考を吐き出し続けていた。そこだけが、私が自由になることができた空間だった。
悩みは尽きることがなく、面倒くさがりな私でも気付いたら20代半ばまで、合計7冊のそこそこ分厚い日記帳に様々なことを書き続けていた。周囲の同年代が青春を謳歌する中、私だけ一人で悩み、考え、書くために生まれてきたのだろうかと本気で思うくらいだったことがその分量に表れている。

精神的に落ち着いた20代半ば以降では、物理的な日記帳を持つことこそなくなったものの、それでもこの通り、私は書くことをやめていない。もはや文章を書くことが、自分の生活の一部として当然のように定着してしまったのかもしれない。
それと同時に、書くことを完全に放棄することを想像するだけでもある種の恐怖を感じる自分がいる。意識して文章として自分の頭の中をアウトプットしていかないと、自分がただ生かされているだけのロボットのように思えてしまうのだ。

◎          ◎

私にとって、文章を書くという行為は、自分のアイデンティティを再確認し、守る役割を担っているのだと思う。
自分の思考やアイデンティティを見失うことがどれほど私にとって恐ろしいことかは、私を精神的に支配しようとしてきた毒親と接してきた中で、痛いほどよく理解している。極端に言えば、人間である以上、無思考でアイデンティティを忘れた状態で生きるくらいなら、生きる価値なんて大してないと個人的に思う。そういう意味で、思考やアイデンティティの化身である文章を紡いでいく行為は、私の生きる意味そのものなのかもしれない。

誰にも見せることのない紙の日記帳に書き込んでいた頃は、独りよがりでもよかった。罵詈雑言でも、取り留めのない話でも、何でもよかった。でも紙の日記帳を卒業して以降は、「人に見られる」文章を書いているわけであって、いくらかは読み手のことも意識しなければならない。
それでも、私の文章はほとんど自分のためだけに書いているようなものであることに変わりなく、読み手がいるからと言って迎合はしない。もちろん、私の文章を目にすることで、何らかの気付きや心の平穏を得られる人がいれば幸いであると思う。
でも、あくまで自分のため。私が私を見失わずに生きるため。ただそれだけのことであって、そこに特殊性はない。ただ生きるために書いて、書くために生きる。確かに文章を生み出しているのは私であるけれど、同時に私がそのような文章たちに助けられている。
これほどまでにシンプルかつ奥深い、「文章を書く」に匹敵する行為など他に存在するだろうか?
だから文章を書くことは、おそらく一生やめられない。そして、これが私のあるべき姿なのだと思う。