例えばこんな実験は如何だろう。
あなたは全面白く塗られた小さな部屋に案内される。部屋の中には小さな机と椅子が一つずつ。鍵を閉められ、ここで3時間過ごしなさいと言われる。本もスマホもテレビも持ち込んではダメ。
それじゃあまりにも可哀そうだから、とA4の紙1枚とペンが渡される。そして監禁がスタートする。

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私はどうするか。きっと当然のように、紙1枚とペンを使って、このエッセイの構想の続きを考え始める。仕事や日々の家事、人間付き合いで忙しい私は、この閉じ込められた3時間を有効活用しようと、喜々として文章を書き始めるだろう。
私の身体は監禁されても、私の想像力は閉じ込めることができない。もしかしたら、これを読んでいるかがみすとのあなたも、文章を書き始めるタイプの人間かもしれない。

でも、隣の部屋で同じく閉じ込められていても、紙1枚とペンを前にして、絵を描き始める子もいるのだろう。頭の中にあった解きかけの数学の問題を書き写して、楽しむ子もいるかもしれない(私の弟のことだ)。紙を折って紙飛行機を作り飛ばす子もいれば、はたまた紙など最初から無視して3時間寝ようする子や、筋トレをする子もいるのだろう。私の姉はきっと歌い始めるタイプの人間だ。

紙とペンを渡されたら文章を書くことが当たり前と思っている私は、その過ごし方の多様性と選択の豊かさを見て衝撃を受ける。
自由な時間の過ごし方には、その人らしさが現れる。

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どれが正解で、どれが不正解というわけではない。その人の個性なのだ。自分にとってそれに取り組むことが普通のことであり、大した苦労もなく努力すら楽しむことができること。ついやってしまうこと。一番自分らしくいられること。それが私にとって書くことであり、彼/彼女にとって絵を描くことであったり、折り紙をすることであったり、数学や筋トレ、歌や睡眠なのである。
好き嫌いの問題であり、向き不向きの問題である。好きだから向いているし、向いているからこそ好きになる。この2つは分かちがたく、密接に絡み合っている。

かがみよかがみにエッセイを投稿し始めてもうすぐ1年が経つ。今まで46本のエッセイを書いてきて、43本採用され、3本が現在掲載結果待ちである(編集部さん、どうぞよろしくお願い致します)。46題のエッセイテーマに向かい合ってきたわけだが、今回の「文章を書くということ」は今までで一番難しいテーマであると感じた。

文章を書くことが好きだからこそ、頼まれてもいないのに毎日毎週パソコンに向かいせっせと文章をタイプし、それが向いているからこそ続けてこれたのだろう。
だからと言って「ワタシ、ブンショウ、カクコトスキ!」というひねりのない正直すぎるエッセイを投稿することは、この1年間で培ってきた文章を書くことへのプライドが許さない。だからといって高尚な文学論を展開するほどの持論も技量もない。
難しい、非常に難しいお題なのである。

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そう、プライド。問題は書くことに「プライドを持てるか」どうか、である。
文章を書くようになったこの1年間で、私の身には様々な変化が起こった。毎日お題に合ったエッセイの種が身近に落ちていないかアンテナを張り巡らせ、エッセイ本や文章術の本を読み漁り、かがみよかがみだけで事足りずいくつものエッセイコンクールや小説コンクールへと応募した。その中で2つの発見があった。

まず一つ、「書くと、より深く読める」ことに気が付いた。
今までも本を読むことが趣味だったが、自分が書くようになってから、作者の息遣いをより強く、作者の意図をより深く感じられるようになった。

エッセイや小説を読み進めながら、自分ならこう展開すると目測しながら読む。当たっていたら「そうだろうそうだろう」とニヤニヤし、思いもよらない方向へ展開していくと「その手があったか!」と驚かされる。そしてそっと自分のエッセンスに取り込む。
これは28年間自分なりに本を読んできた読書人生の中で、コペルニクス的転回であった。

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そしてもう一つ。本を読んでいて「悔しい」と感じるようになったのだ。
思いもよらない方向へ展開し、それが自分の中でもやもやとしてまだ言語化されていない「言葉になる前の言葉」たちを、作者が先に言い当てているのを読むと、「私のもやもやが言葉になっている!凄い!」という喜びと感嘆とともに、「私が先に言語化したかった!」という一抹の悔しさや嫉妬を覚えるようになった。

不遜?重々承知しております。でも漫画BLEACHの藍染惣右介が言っていたではないか。「憧れは理解から最も遠い感情だよ」と。
作者を「憧れ」という楽な感情で見るのをやめ、嫉妬をするのは、「同じ土俵で戦いたい」「ライバルになりたい」という私の精一杯のあがきなのだ。どうかお許しを。

文章を書くことは今までも好きだった。向いているとも思う。しかし、この1年間で46本のエッセイを書き、私に生まれたのは「文章を書くこと」へのプライドだった。より深く本を読み、作者のその途方もない才能に嫉妬し、じりじりとする。これもそれも全て、「良い文章を書きたい」という私のプライドなのだ。

だから、冬晴れが気持ちいい土曜日の昼、別に実験をしているわけでも、閉じ込められているわけでもないのに、私は今日もパソコンに向かい、紙1枚とペンを片手にメモをとり、こうしてエッセイの構想を練る。
自分の好きなことに対して、プライドを持てるほどのめりこむことができること。その望外の喜びをかみしめながら。