溜まっていた仕事が終わった。まだまだ完成とは言えないけど、大台に乗せたから、あとは細かい手直しだけだろう。

ちょっと一息入れたい。皆まだ忙しい真っ最中だし、この程度の仕事の進み具合でお祝いなんて、ふざけてると言われること間違いなしなので、一人でそっと、最近新しくできた、近所の飲食店に行くことにした。

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昼時だからか車が多くて心配したが、店内には空いている席もいくつかあった。
店内は白を基調にしたシンプルでおしゃれな作りで、店員も普段着に近い服装だ。客は20代がほとんど。皆ちゃんとおしゃれをしてきている中、無地のセーターにパンツというのは、少し肩身が狭かった。格好だけで縮こまることは今までそうなかったのに、思えばこの時は何か居心地が悪かった。

今思い出してみると、店内にいる誰とも、仲良くなれそうな気がしなかった。何かトゲのある言葉、同調圧力のようなものを感じた。
右隣の6人組の女性客は何やら賑やかで、まぁそれはいいことだけど、断片的に入ってくる会話は、お世辞にも品がいいとは言えない内容だった。ここは若い人のお店で、私が来るようなところではないんだと思ったら、左隣の2人組は、私より年上だった。年齢の問題でもないらしい。

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大学1年生の頃、進学したてで浮かれていたこともあり、遊び呆けていた。勉強などろくにせず、頻繁に出かけ、下宿をしている友達の家にも遊びに行った。誰かとつるんでいることが良いことで、一人行動なんて惨めで、遊んでいないのがバカバカしいと思った。
あっという間に1年が過ぎ、何も変わってないどころか、部活動に励んでいた高校生の頃より劣っている自分が恥ずかしくなった。

2年生に上がる頃に、気持ちを入れ替えた。すると今度は周りと価値観が合わなくなり、摩擦が生じた。他で仲間ができたからいいだろうと言い聞かせても、過去の自分の目で今の自分を見るからか、何か自分を見下しているところがあった。
1年の頃からの友人と、その後にできた仲間たちとの間で揺れた。結局友人を選んで後悔しているが、仲間たちはまだ私を受け入れてくれるらしい。今、私は私で、自分のすべきことに励んでいるつもりだ。

その日、飲食店で見かけた人たちは、過去の私だろう。だから何か居心地が悪かった。食事は美味しかったけど、期待していたほどではなかった。量も少ない。近くの町中華に行くんだったなと後悔した。

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何か大事なものが、あの時の私には抜け落ちていた。何も楽しくなかった。
でも、あの頃の私が今の私をバカにする。バカはどっちだよと思うけど、私の気持ちもすっかり折れてしまっている。
あの頃の私に振り回されて、意味のないことに時間を浪費して、後悔したことは数え切れない。

しかしあの頃の私が、今の風潮そのもので、同年代の大多数の意見でもある。私にはそれは合わないとわかっているのに、上手く折り合いをつけて生きるのが難しい。
捨てよう。一度死んだものと思って、生き直そう。このままじゃ、仲間たちに申し訳ない。
それでも、また周りから冷ややかな目で見られるのが怖い。何より私自身が私を受け入れない。いい加減、現実見ようよ。こんな私を好きになってよと思うし、好きなはずなのに動けない。
本当は、世界を回したいだけかもしれない。もはや世界は彼女らを中心に回っている。しかしそんなことに加わって、私にいいことなど一つもない。

皆が、こうすべきだということに従えない。でも、それって誰の声だろう?
周りに言われることをそのまま信じ、何も考えずにそれに合わない人たちを批判的に見ていた、過去の私の声じゃないか。

そしてその周りの声は、誰にとって都合のいい声だろう?
私はそれは、社会経済を回したい人の声だと思う。そうして回し続け、更に成長するためには、人にお金を使ってもらわなきゃならない。コンビニご飯でも闇鍋でも、皆で食べれば楽しいからいいやじゃ困るのだ。
その意味では私は本当に困った人だから、こんな目にあうのかもしれない。確かに彼らの良しとするものから、だいぶ外れたところにいる。

生活費のために働いて、家に帰ったら片付けをして、普段は外食なんてほとんどせず、家事をして働いて寝ている感じだ。あとは休日も仕事をしている。
だから給料のほとんどは貯金に回る。欲しいものも特にないから、使い道もない。直せば大体なんだって使える。

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毎日山と積まれた仕事に追われ、一段落ついたと思って見直しをしていたら、また他の資料が必要だと気がついて、仕事が増えてキリがない。しかもこの仕事というのが、給料の発生しない慈善事業だ。投げてしまいたくなる時もあるけど、同じ仕事に関わる皆のことを考えると、そんなことはできない。

お金がもらえないのに続けるのは、やり甲斐はあるからなんじゃないかと言われるかもしれない。確かに、感謝はされている。名誉が手に入る。誇らしくもある。しかし、日本じゃそんなの誰にも評価されない。
私たちに綺麗なオフィスなんかはなく、主に資料を集めているだけの私は特に地味だ。連絡も必要最低限。皆には有難がってもらえるけど、ひたすら紙面に向き合うばかり。「あーあ、国連だったらお給料もらえるんだろうな」「スタバでパソコン叩いていたら、それっぽさとか出るのかな」とか勝手に妄想しながら、家で資料のページをめくる日々。

しかし、気分転換に訪れたスタバで、パソコンを開いている人たちを見て、田舎だからだろうか、あんまりかっこいいという感じはしなかった。それより仕事の失敗を案ずる私に、「失敗しても、あなたに何かある前に、私たちが死ぬから大丈夫」と言ってのける皆の方がよほどかっこいい。計画担当として、絶対に彼ら誰一人死なせないけど。

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冗談ではなく、本当に命の危険のある国で彼らは暮らしている。
彼らと比べたら、私なんかは体も心もお豆腐だと思う。突けばすぐに崩れる。小さなことで不安になったり、保身に走ったりする情けない人間だ。周りの皆のためにと動くどころか、同じ境遇で前を向いて生きていける気がしない。
彼らのことについてもっと知るために、関係する映画を見ようとも思ったが、「そんなことより、本などで知識を貯めて、少しでも前に進めてほしい」と言われてやめた。
自分たちがどんな苦境に立たされているかは、知識として私の頭にあることを知っている。苦しみなど知ってくれなくていいから、解決のために動いてくれということだろう。自分の覚悟のなさが嫌になった。彼らと私、私を含む多くの日本人との違いはなんだろう。

趣味も娯楽も大切だけど、私たちは暇すぎて、さして楽しいわけでもなんでもないことにまで手を出していたのかもしれない。
それは責任から逃れるためのような気がする。本当はもっと、ちゃんと向き合わなきゃならないことがあるのに、恐怖からか、そこから逃げるために、感覚を麻痺させるために、お金と時間を溶かしてきた。それは現実逃避だ。その現実に向き合ってこそ、本当の幸せが得られるはずなのに、私たちはそれと向き合おうとしない。だから、人間らしく生きないバチが当たって苦しいのかなと思った。言う方も言う方だけど、真に受ける方も大概だ。

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だから私は、現実逃避をやめた。同じものを使い回して、ヒーヒー言いながらお金にならない仕事に取り組み、成果が上がったら仲間と祝う(予定な)だけの慎ましい生活を楽しんでいる。
現実逃避をしないということは、目の前のことに一生懸命でいるということだと思う。なんだっていいから、一生懸命ならいいと思う。

周りからはマウントをとられるわけだけど、これも当然、気にする方がバカバカしい。実際、相手にしないと向こうがしぼむ。そのまましわくちゃになっちゃえばいいのに。
なんて言いつつ、やっぱり気になるときは気になる。そりゃ誰だって傷つくだろう。「あー傷ついてるな私」と思って、流してしまおう。

先日、仲間の顔を久々に見た。ちょうど計画を伝えた後のことで、心なしか以前より表情に力強さを感じられた。彼は皆のために、これから動き出すんだろう。私がしょげていたら皆が動けないのに、本当に情けなかった。
私は日本では変わり者で、向こうでは神様と言われる。持ち上げられているだけだろう。それにしても大げさすぎるけど、そのくらい頼りにされてるってことだと理解した。
本当は頼りないただの一人の人間だけど、彼らのために力を尽くしたい。そして小さな人間である私が、彼らからたくさんのことを教わっている。情けは人の為ならずというのは、本当だった。この仕事の先に、皆の幸せがあると信じている。