少し自慢げに聞こえてしまうもしれないが、私は昔から文才があると言われることが多く、それは自分の中で「文章を書くこと」に対する自信に繋がっている。

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さてそんな私は昔から、夏休み恒例の宿題となっている読書感想文も周りが嫌だ嫌だといっている中、1人だけその存在を楽しんでいた。なぜそんな厄介なものを好んでいるのかと言われたことは何度もあったが、自分の考えをそのまま形に残すことができるという部分は私にとって快感だった。

また、小学校1年生の頃、私はよく詩を書いていたのだが、当時の担任の先生に毎週執筆した詩を見せては、感想を求めていたという思い出があり、恩師はいつも「それをどんな気持ちで書いたのか」を私が納得いくまで聞いてくれた。

そのような経験を通して、文章を書くという行為が、日常会話の中で表現しきれなかった自分の感情を表現するための1つの手段だと気がつくようになったのは、おそらくこの頃からだったように思う。 

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ただ、私はあまり要領が良い方ではないため、読書感想文に限らず大学の課題レポート等も最初から文章をまとまったものにすることは意識せずに、箇条書き形式で考察や主張、その時に感じた疑問や思いつきなどを書き出すようにしている。

時にそのような方法はブレインストーミングと混同されやすいのだが、私の中では少し異なっているように思う。
例えば、ブレインストーミングは1つのアイデアをその関連性の中で広げていくイメージだが、私が独自に行っている箇条書きスタイルは、いわば「なんでもアリ」形式を採用している。
なぜなら、私は考えがどんどん飛躍してしまう傾向にあるため、ひとたびその沼にハマると抜け出せなくなって頭を抱え込んでしまうからだ。でも、自分の主張の元となった箇条書きスタイルを見直すと、原点に戻ることができる。

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さて、私の文章構成ルーティーンを紹介している間に、案の定「文章を書くこと」が自分にとってどのようなものなのか、断言するパートを入れ忘れてしまった。そんな時は、箇条書きで書き留めたアイデアと、今まで執筆した文章をもう一度初めから読み直すことにしている。

なるほど。このエッセイの中に足りないのは、「文章を書くことが好きな理由」だ。

正直なところ、文章を書くことは好きだが、それを周りから「上手い」とか「下手」と評価されなければならない環境に置かれた時は、その評価方法に納得いかないと感じることは多々あるし、調子が乗らないからと言う理由だけで、たった1000字のレポートに2日かかってしまうことも、もちろんある。

しかし、そのように不満がある中で書き上げた文章もまた、自分のその時の「味」というものが出ているから、読み返すたびに、好きになる。時に、何らかの作品の影響を受けて、文調に変化が生じたり、いわゆる自分のテイスト的なものも変わっていたりするのだが、そんな些細な部分も何となく「いいじゃん」と客観的立場にいるもう1人の自分が褒めていたりする。

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今も、このエッセイをどう終結させようか悩んでいるが、「新しいアイデアを末筆に持ってこない」という暗黙のルールを破ってみようと思う。私は文章を書くことが好きだ。いや、もっと正確に言うなら、私は自分が執筆したものが好きだ。そしてその文章を読むことが好きだ。

自分が書いたレポートも詩も手紙も、あらゆるジャンルを書くことが、読むことが、たとえそれが誰かに「上手」「下手」と言われても、その文章は私にとっての一部ともなり得るし、誰かにとっての何かになるかもしれない。だから私にとって文章を書くことは、今までもこれからもきっと「一部」であることに変わりはない。