文章を書くのが好きだ。
自分が感じたことを、文章なら伝えられる気がするから。

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中学生の頃、本当に文章を書くのが上手な友達がいた。
文字の運び方や、表現の仕方、何もかもが綺麗で、上手くて、憧れだった。
一方、その頃の私は、読書感想文はほとんどママのアイデアで書いていたし(先生方すみません)、考えることも、書くことも苦手で、得意なことなんてないと言ってもいいほど。
それでも、その子の文章は私の理想だったのだ。

「あの子みたいな綺麗な文章が書けたらな」と思っていたある日、学年集会で、「学習とは真似ることだ」って学年主任が熱弁しだした。
こりゃあ長くなるな……と隣の友達と目配せをした後、「真似る」という言葉が妙に引っかかった。

人の真似をするのは、あんまり良くないイメージがあったし、今でこそ「アイデンティティ」なんて言葉を知ってるけれど、「真似」は「その人らしさ」が消えちゃう気がして好きではなかった。
でも、なんとなく、その日からその子の文章の書き方を真似しはじめた。

毎日担任の先生に提出する5行くらいの日記に、変な倒置法を使ったり、体言止めをしてみたり、色々書いてみたけれど全部しっくりこなかった。
きっと今見たら顔から火が出ちゃうくらい恥ずかしいし、所詮真似事は真似事でしかない。
卒業文集も全然綺麗に書けなかったし、学年主任め、と思いながら卒業した。

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通っていた塾の先生に「制服、着られている感がなくていいね」という謎の褒め言葉をもらった4月、わくわくした気持ちで高校の入学式を迎えた。
多分、そこからだ。
自分が好きだと思う文章を書けるようになったのは。

私が通っていた高校は、カトリックのミッションスクールで、日々「愛」とか「神様」を身近に感じられる環境にあった。

日々、色々な考えに触れているうちに、私は答えがないことを考えるのが好きになった。

わからないことは怖いけれど、考えると面白くて。
でも、考えたことは文字で伝えないと、伝わらない。

そこから授業のレポートや読書感想文はじっくり考えて、文章を運ぶようになった。
見る人がわかりやすいように、でもわかりやすすぎない表現も欲しいな、なんて生意気なことも考え始めて。
頭の中にあることを、文章化する作業がどんどん楽しくなっていった。
気がつけば、担任の先生から文章を褒めてもらい、校内の読書感想文コンクールにクラス代表で選ばれるくらいになっていた。
3年間、クラスの代表として校長先生に名前を呼んでもらえたことは今でも私の誇りだ。

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あの子の真似から始まった、私の文章変遷(?)は、もう真似事ではなくなった。
自分の考えを持って、それを書けるようになったのだ。
それが上手か下手かは置いといて、全ての文章にはきっと書き手の想いが乗っかっている。
だから、過去の私が書いた下手っぴな日記も、卒業文集も、全部、当時の私の一部だし、今の私ができるまでの準備期間だったはずだ。

憧れのあの子のような綺麗な文章は今でも書けないし、まだまだ上手な文章を書くのは難しいけれど、それでいいのだと思う。

私は文章のおかげで私のことを好きになれた。
ひとつのアイデンティティを確立することができたのだ。
そして、それはこの先も良い方向に進化していくはず。

大学にも「桃の木ちゃんが書く文章、すごく好き!」と言ってくれる友達がいて、本当に嬉しく思う。
「全然上手に書けないよ……」なんて返してしまう私だけれど、これからも私は、自分が好きな自分でいられるような文章を、書き続けていきたい。

話し言葉ではなく、文章だからこそ伝わる気持ちを。
これからも、大切な人に届けられますように。