私が中学に上がった頃から高一の冬、祖父が亡くなるまで、仕事で忙しい母を除いた私と祖母は、祖父の介護に身を粉にする日々だった。
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ガシャン!とガラスが割れる音がした。誤って落としてしまったにしては派手な音だった。
駆けつけてみると、そこには血走った目をした祖母と、呆気に取られた表情の祖父、その間に飛び散るいくつものコップの残骸があった。日頃の祖父の態度に痺れを切らした祖母が物にあたったのだとすぐに分かった。
私は何も聞かず、何も言わず、いつまでもぽかんとしている祖父を乗せた車椅子を別の部屋に撤収させた。
部屋に戻ると、祖母が荒い手つきでガラスを拾っている。片付けを手伝いながら言う。
「どうせ自分で片付けんといけないのが分かってるのに、なんでこんな面倒な当たり方するんよ」
「分かってるけど。我慢の限界ってもんがあるわ」
「まあ確かに(笑)。ちなみにコップ直接は当ててないんでしょ?」
「当たり前よ。そんなんしたら虐待とか言われるわ。クリーンに介護して、クリーンに死んでもらわんと保険金入らんくなる」
「ほんまに(笑)」
そうして私達は黙々と祖父に向けられた怒りを回収した。
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この部分だけを抜粋すると、私達は時代劇の悪代官のように聞こえるかもしれないが、祖父にだってコップを投げつけられても不平を言えないほどには中々に非があった。
まず、文句が多かった。体を気遣って作った減塩の食事を、不味い、塩を寄越せと言って聞かない。ダメだと言うと、わしに死ねと言うのかと言い始める始末。今行っておかないと漏らすことになるからと言うのに、動きたくないのだろう、嫌がって結局漏らして、こちらの手間を増やしてくださることもよくあった。
もちろん純粋に楽しいこともあったけれど、私達の介護生活の8割くらいはこんな感じだった。
でも家族以外にそんなことは分からない。側から見れば、祖父は介護してくれる家族のいる幸せなおじいさんで、祖母は愛する主人に献身的に尽くす女房、私はおじいちゃんおばあちゃんを支える健気なお孫さんだ。
そして実際の姿は、私達よりも周りが受け入れたくないようだった。
「いつも文句も言わずお手伝いして偉い」と言われて、「怒りきれないくらい色んなことをやらかしますから」と笑って返すと困った顔をされた。祖父が入院した時、「寂しいでしょう」と言われ、「でも介護しなくていいから楽になったところもありますよ」と言うと、強がっていると思われた。
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私達の真実は周りの人の需要には合わないんだと分かった。需要に合わせるのは簡単だった。「〜でしょ?」と聞かれることに頷いていればそれで良かった。
それだけで私達はクリーンで素敵な家族になれた。良いように取ってもらえるのなら別に私達にとってはそれでも構わなかったし、かえって好都合なことも多かった。
頷き続けていると、理想という名の仮面がピッタリと私の顔にはまって違和感を感じなくなっていった。麻痺していたのだろう。
本当にこれでいいのかと時々思うこともあったけれど、祖父が死んだら火葬場で一緒に燃やしてもらえばいいやと深く考えないようにしていた。考えたところで仮面を捨てることなど、どうせ周りが許さないのだ。
そして、ろうろうやってきた素敵なお孫さんの仮面をつける最後の日。祖父の葬儀の日。私は今までで一番需要に応えたと思う。その日たまたま頭痛を起こして顔色がひどく悪かったのが演出に一役買ったのだ。
元々偏頭痛持ちだから心配しないでと言うのに、言えば言うほど周りに心配をかけないようにしているんだと思われた。親戚同士が、
「今まであんなに一生懸命介護してたんだもの。おじいちゃんが亡くなった悲しみで張り詰めていた気が緩んでしまったんだろうね。まだ子どもなのにしっかりした子だよ。可哀想にね」
と話しているのが聞こえた。葬儀に参列した人に私はさぞ祖父の死に嘆き悲しむ殊勝なお孫さんに見えたことだろう。
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私をがんじがらめにする理想のイメージ。いつもの偏頭痛。一方で菊の花を持ち帰らない叔祖母。あらゆるものが私の心を押しつぶそうとしてきて、負けまいとするほどに、悲しみに浸る余裕なんかなくなった。
泣くこともできないことだけが悲しかった。頭が痛かった。
人が死んだんだ。それ以上のことがあってたまるものか。
でも私は死を悼むことより、その場に立っていることで精一杯だった。
結局、頭痛のせいで火葬場には行けなかった。私の仮面は成仏できずに、今もここにあるのだろうか。
麻痺してしまった私には分かりようもないのだけれど。