塾講師としてアルバイトをしていく中で、国語を好きではないと感じる小学生を多く見る。特に、記述の問題は答えを考える前に諦めてしまう。おそらく「読む」、「書く」という行為自体に面倒臭さを感じてしまうのだろう。
そして、私は、このような子供たちが書いた答えを模範解答ではないという理由で誤りとしてしまうことが好きではない。

確かに文章をあまり読まずに、または理解できずに想像や予測で書かれた答えは国語の解答としては誤りであり、正しく文章を読み取る力を養うためには大切な過程である。しかし私は、初めから文章の読み書きにマイナスイメージを持っている子供たちに、文章の読み書きを更に嫌なものにはしたくない。
それは私自身が文章を書くことは自由なことであると体感しているからである。

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中学受験で都立中学を受験した私は、試験課題である作文を小学5、6年生の時期から普通の小学生よりも多く書いてきた。中学受験において最も重要であるとされる算数の成績があまり良くなかった私は、受験勉強自体に自信を持って取り組めることはなかったが、作文は練習を重ねるほど誉められることが多くなり、それが嬉しく、得意なのかもしれないと思っていた。

しかし、それと同時に期待に応えたいと思うことが増え、また、他の教科の解答と違い、解答が合っているのかの確証を得られないまま問題に向き合わなければならないことを怖く感じている部分もあり、作文を好きになることができなかった。この頃の私にとって、書いている文章は常に正しいものでなければいけなかった。
その後、学生時代は文章を書くことから遠ざかり、長い文章を書くのはごくたまに出る課題が殆どで、自分主体で書くものはSNSに投稿する短い文ばかりであった。

しかし、このSNSに投稿する文章によって、私は文章を書くことを好きになったように思う。誰から何を指定されるわけでもなく、自分が今感じたことを素直に文字に表せることは、昔から自分自身のことを人に話すのが好きな自分には最も合っている作業であったのかもしれない。

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好きに、自由に文章を書いていいことを知った高校生の私は、いかに忠実に自分の感情を表現できるかを楽しむようになった。好きなアイドルが投稿した写真を見て感じた感情は「可愛い」なのか「かわいい」なのか、「綺麗」か「きれい」か「キレイ」か。唐突に頭に浮かんだ考え事に対する結論を自信を持って言えないとき、結論付けたけれどその答えが出るような世の中に納得いかないとき、そのような心のモヤモヤはどのようにしたら文章に表せられるのだろうか。

そんなことを考えながらした自分のツイートを見て「表現できた気がする」と「なんか違う気がする」を繰り返す日々が、私の中で言葉を、文章を大切にする時間だったし、日常の中で新しく吸収した語彙で自分の表現の幅を広げることができるのは、自分が存在していることをより緻密に残せている感覚だった。そして、自分自身が表した自分を見て、私は私を認識し、私の感情を、感じ方をさらに構築していたように思う。

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こんなことをフワフワ考えながら書く私の文章は、ひらがなだらけになっていたり、句読点が全然なかったり、その時々によってバラバラで、読みづらい、伝わりづらい時もある。
それでも私は自分の感情をなるべくそのまま視覚化することが好きだし、文章はこんなにも自由なのだから国語を教えている小学生にももっと知ってほしいと感じる。あなたの書いた文章があなた自身を表し、残し、豊かにするということを伝えたい。