私が変えたいこと。
それは「就活生に強いられるステレオタイプ」だ。

大学生3年生の終わり頃、私は就職活動に関するオリエンテーションの授業を受講した。
授業を担当していたのは、学外から来たであろう、女性のキャリアコンサルタントだった。彼女はグレーのパンツスーツを着ていて、皺のない綺麗なジャケットから、黒色のハイネックのニットを覗かせていた。それは長身の彼女によく似合っていて、いつか私も会社勤めをする時は、あんな格好をしてみたいと、ぼんやり思っていた。

履歴書の書き方、面接の受け答え、身だしなみ、お辞儀の角度。彼女は就職活動に関するあれこれを、ハキハキした口調で説明していた。私は、これから就活生になる当事者であるにも関わらず、どこか他人事のように彼女の話を聞いていた。唯一ピンときているのは、パンツスーツにハイネックのニットを合わせる着こなし方だけだった。

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数週間後、私は予定通り就活生になった。
履歴書に貼る証明写真を撮るために、気に入っていたブリーチカラーの髪を黒染めして、目にかからないように前髪を流し、スプレーで固めた。不自然に真っ黒な髪を撫で付けながら、まるで額に海苔が張り付いているようで可笑しくて、写真を撮ってSNSに投稿した。

気になる企業があるという友達に誘われて、合同説明会に参加した。一つの会場に複数の企業がブースを並べ、就活生は自由に会社説明を聞くことができるというイベントだった。
イベント会場前には、多くの就活生が集まっていた。開場すると、先頭に並んでいた学生達が一斉に走り出した。我先に、希望する企業のブースへ一目散。皆何かに洗脳されているように見えた。

黒色のリクルートスーツ。黒色のパンプス。一つに束ねられた黒色の髪。同じ服、同じ髪型、同じ顔。
気持ち悪い、と思った。

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女子のスーツはスカートでなければいけないという、暗黙の了解が嫌いだった。あのお姉さんみたいに、かっこよくパンツスーツを着て、自分に自信を持ち、個性を表現することすら、許されないのが嫌だった。見た目を理由に不採用を突きつけてくる会社も、それを当たり前とするこの社会も、何もかもが嫌いだった。

身だしなみの概念も、就活戦争に負けて新卒採用を逃したら終わり、という圧力も、何もかも周りに馴染めない私には、もうこの広い会場内に居場所がなかった。今思えば私は、この時点で既に、社会に出ることに絶望を感じていた。
その日の私に残ったのは、慣れないパンプスで靴擦れした、足の痛みだけだった。

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「就活 身だしなみ」で検索すると、どの就活情報サイトにも、大切なのは「清潔感」「フレッシュさ」「機能性」だと記されている。
第一印象はもちろん大切だし、初対面の人に好印象を持ってもらうには、それらの条件は必要だとは思う。ただ、「好印象を与える身だしなみ」の範囲が、狭すぎやしないだろうか。

そもそも、この就活生の見た目のステレオタイプを、企業側が求める理由は何か。見た目を全員同じにすることで、それ以外の内面的な部分を評価しやすくなるのだろうか。見た目を含めたすべてが、その人の個性なのではないのか。それは本当に、個人を見ていることになるのだろうか。

少しでも髪色が明るかったら、アクセサリーをつけていたら、スーツやネクタイの色が派手だったら、他の人と違ったら、その人はどう見ても「不良で不真面目」なのだろうか。そういった固定概念のせいで、会社にとって有益な人材を、取り逃がしているかもしれないとは考えないのだろうか。これからもこの国では、出る杭は打たれ続け、「みんな違ってみんな良い」なんてのは幻想なんだろうか。

別に自分が就活生の時に、髪を派手な色にしたかったとか、お洒落なスーツを着ていたかったとか、そういう話ではない。ただ、個性を打ち消して、全員同じであることを強いるのではなく、違いを受け入れて、もっと個人の人となりを見てほしかった。

もし私が会社の採用担当だったら、髪型も、メイクも、アクセサリーも、服装も、TPOをわきまえて、清潔感さえあれば、それ以外はもう少し自由にして面接に挑んでほしいと、学生達に伝えたい。その方が、相手がどんな人なのか想像しやすいし、面接するのがおもしろそうだから。

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私にとって「就活生らしい身だしなみ」は、気持ちを切り替えるためのスイッチではなく、本来の自分を殺す鎧になっていた。「会社に気に入られなければならない」というプレッシャーから、本当の自分の魅力を発揮できなかった人が、きっと私以外にもいたはずだ。
無駄な固定概念は捨てた方が、就活生側にとっても、企業側にとっても、より良い採用活動に繋がるのではないだろうか。

近年、多様性という言葉をよく耳にするようになった。それでも、長い間放置して、こびりついて固まってしまったステレオタイプは、この国にまだ多く存在している。時代の流れとともに、今一度「当たり前」を見直してみることが必要になっている。柔らかく、しなやかに。誰もが自分らしく、のびのびと生きられる社会であってほしい。