学生時代の国語のテストの最後の問いは、おおかた「文でまとめよ」だった。
私はそれが至極苦手であった。
国語自体は好きだったが。

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「文でまとめよ」には、いくつかのシリーズがある。
よくあるのは、「この物語を通じてあなたが感じたことを50字以内で述べよ」だ。
ということは、「おもしろかった。感動した」でもいいのかな?という天の邪鬼な自分が出てくるのはごく自然なことだ。
だって、これ以外にないんだもの。
でも実は、8割は埋めないといけないというトラップ。
は?じゃあそう書いといてくれないと。
テストが返ってきて、振り絞って書いた感想の上に△が付けられていて意味がわからなかった。
余りすぎている余白に、「もう少し埋められるようにしましょう」と赤ペンで記されていた。
ひとの感想に○も△もないだろう。

文でまとめよシリーズ、その2。
「棒線Aのセリフを××君が言うに至った原因を、本文中の文言を用いて30字以内で述べよ」
この問いには何度も悔しい思いをしてきた。
問いの意味はわかる。そしてその答えもわかる。
だから本文中から見つけることはできるが、それを"用いる"ことができない。
これも△を付けられていた記憶がある。
答えが合っているなら○をくれよ、と何度不貞腐れたことか。

文でまとめよシリーズ、その3。
「本作を通して、筆者が伝えたかったことを30~50字以内で要約せよ」
これは本当に理解に苦しんだ。
今でもまだよく意味がわかっていない。
そもそも、物語は読み手がいて初めて成るものと思っている。
それはつまり、「読み手の感情が答えである」と私は考える。
筆者が何を伝えたいとかそんなんはどうでもいい、とすら思う。
確かに"正解"は存在する。
それが筆者が伝えたいことだ。
読み取り能力や道徳心、そして要約力を見るための問いなのだろう。

しかし私はこの問いに嫌悪感すら覚える。
まあこんなことが言いたいんだろ、というのはわかるが、根本的に要約能力がないので制限オーバーになる。
こうなると削るべき箇所がわからなくなる。
ここを消せばここも変えなくてはならない、とか。
それが面倒になって、酷いときは無回答だったこともある。
空白の解答欄に大きくチェックが入っていても、もはや何も思わなかった。
だって筆者が思っていることなんか、私に関係ないもん。

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それから読書感想文。
これこそ「おもしろかった。 完」である。
読書も苦手だったし、要約も苦手だし、この宿題が一番難儀だった。
これもまた、○や△を付けられるのだ。

そんなこんなで、私は"書くこと"が嫌いだった。
しかし今、書くことが嫌いということを書いている。
半分憂さ晴らしだ。
では残りの半分はなんだろう。

どうやら私は、好き勝手に書くことは嫌いではないらしい。
最近は少しずつではあるが、創作文も書いている。
それつまり小説。
そういった作品には"評価"は付きものだが、これは「先生が求める答えと違うから△」というようなことではない。
だからそれらに下される評価は良い。
なんだか分かったようなことを言っているが、まだ評価していただく段階にもない。
何を隠そう「非公開」の状態なのだから。
というより、完成すらしていない。

テンプレのある答えを書いて点数をもらうということに対して、ダサさを感じているのだろうか。
これはいわゆる中二病?
もう中二病でもいい。
書きたいことをただ書く。
お喋りが得意でない私は、文章では自分を表現できる、ような気がしている。
実際、文章から人となりがわかる、ような気がしている。

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入試に記述問題を導入する、という話を思い出した。
調べてみたところ、どうやらそれは延期されるらしい。
採点者の基準がバラバラな可能性や、自己採点が難しいという理由とか。
要点がまとめられていれば、どんな表現であっても○でいいじゃないか。
そんなに難しいことだろうか。
しかし、これは入試とは無関係な立場の私だから言えること。
もし私が当人だったら、「表現力を見たいとか言ってたのに、オリジナリティー批判されてるじゃん。なにこれ」と文句垂れてたことだろう。
あれ、なんで×付けられてる前提なんだ?

文章は、自分を表現するために書く。
誰かに評価してもらうためではない。
ただし、結果として褒められたり、意見を頂戴するのは良い。
こうして書き上げたエッセイは、目安の文字数をとうに越えている。
赤ペンのチェックが入らないことを願おう。