29歳は忙しない。
キャリアでは、役職が付く同期がちらほら出てくる年齢。ここぞとばかりに転職に乗り出す人も。
私生活では、2桁目が変わる前にウエディングドレスを着ようと何度目かの結婚ラッシュ。

29歳は比較する。
SNSには子どもの写真を上げる人、なかなか予約の取れないレストランの感想を綴る人。
「子どもばかりでつまらないからミュートにしちゃった」と笑うグルメな彼女。
「パパ活も終盤だね」と微笑む2歳児を抱っこした彼女。
29歳は分断する年なのかもしれない。

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高校全入時代と言われて久しい21世紀。18歳までは概ね似たような人生を歩んできた私たちは、20代で行き先が多様化していく。
そして何よりも大きな分岐点は「母親になることを選択するかしないか」であると感じる。
はっきり言おう。社会、そして我々自身も、母性を抱かない女性への眼差しは冷たい。

先日、高校時代からの友人と3人で食事をする機会があった。そのうち、一人の男友だちの夫婦事情の話題になった。その男友だちの妻がそろそろ子どもをつくりたいと言い始めるようになったとのことだった。

「俺は別につくってもいいし、奥さんも仕事をセーブするって言っているから全然揉めていない。でも正直、子どもができたら夫婦の寝室は別にしてほしいんだよ。子どもの夜泣きで眠れなくなるのが辛い」
それを聞いた一児の母親である友人が、経験者ならではのアドバイス。

「夜泣きは慣れたら気にならなくなるよ。うちの夫は全く起きないし」
「いやあ。俺は昔から音には敏感だからどうだろう。それが理由で夫婦喧嘩も嫌だし、奥さんがノイローゼになるのも正直不安。だから今のうちに全て話し合っておきたいんだよね」
「確かに事前に2人で話し合えるのは大事だと思う。でも、女は産んだら母性が出て子ど
もを愛せるから、問題はあなたの方だね(笑)」

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考えるより早く言葉が私の口より先に出た。
「母性って自然と出てくるものなの?いつから?」
「出るよ。妊娠してから徐々に強まる」
男友だちが首を縦に振って聞いている姿が視界の端に映った。
それ以上この話題を深掘りすることはしなかったが、ずっとこの出来事は私のなかで煮え切っていない。

切に願うのは、あの会話が聞こえる範囲に中絶を経験した人、現在母親でいることに悩んでいる人がいなかったら良いなということ。
母性神話。これは平成生まれの私たちの中にも脈々と受け継がれており、子どもを産まない権利がどんな人にもあるはずなのに、今ひとつ信じ切れても、支持できてもいない。
それが無意識に言葉になって、悩んでいる人の胸を刺す。

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昨今のアメリカを賑わすプロ・チョイス派とプロ・ライフ派の意見のぶつかり合いを、日本の報道ではあまり取り上げていないからかもしれない。
そしてこの信条のぶつかり合いは、女性の選択の権利と胎児の命だけの話ではないことに違和感を感じるまで語られていない気がする。

一人の子どもがこの世に誕生するのは、そんな二項対立の話では済まない壮大さがある。
どっちの権利・命が大切かばかりに議論が集中しているが、その先に生きる彼らの人生が語られていないと思う。
中絶したら、誕生したら終わりではない。人間はそこからも生き続ける。
最近ではその先にある、子どもを安全な場所で養育する権利を謳うリプロダクティヴ・ジャスティス、つまり正義とは何かを問う考え方も生まれている。

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体内時計の音が聞こえる人と聞こえない人。出産を経験しているが性自認は男性という人。ひと言に「母性」と語るにはあまりに多様な世の中なはずなのに、今でも母親でいることに悩んでいる人、子どもを持たない選択をした人への視線は凍てついている。

立ち止まって考えてみたい。産後鬱、育児ノイローゼに陥る女性は弱者だと追いやる社会は、子どもを育てたい/子どもが育ちたい社会なのだろうか。
「辛いのは今だけだから」という励ましは、どんな根拠があるのだろう。

社会は、そして社会を構成する人々は、「母親になる権利はあるけれど、母親をやめることはできないことがどういうことか」を議論させない。
いくら下駄を履かせても、父親になることと母親になることの重みが一緒だとは言えない。
全ては便利な母性神話に帰結するからだ。

私はこの神話を斜めから見る視線を作りたい。否定するでも肯定するでもなく、まずは斜めから見る大多数の目が今の世界には必要なのではないか。