東北の生まれ故郷を離れて幾年か経つが、今でも寒い日が来ると、じんわりとした後悔を、『あの日』のことを鮮明に思い出す。

2011年3月11日。私は当時小学6年生だった。
帰りのホームルーム中に、酷い地鳴りとともに強い地震が発生した。避難訓練通りに机の下に隠れ、荷物をまとめて校庭に避難した。地震自体は強かったが、目に見えた被害はなく、教員たちが慌ただしく動いているのがなぜだか滑稽に思えたのを覚えている。
校庭に避難した私たち児童は、保護者の迎えを待つことになった。初めは非現実的な光景に浮足立ち、校庭は何かの行事中かのような騒がしさだった。それでも、ひとり、またひとりと保護者に連れられて帰宅が始まると、だんだんと校庭は静かになっていき、残された児童を灰色の空が重く包んだ。

◎          ◎

当時、小学2年生だった弟と無言のまま両親を待つ。私たちの両親は当時にしては珍しく共働きだった。母は小学校から遠いところに勤めていたので、迎えに来るのは父が順当だろうと、心の中で予想していた。しかし、いくら待っても父は迎えに来なかった。
友達はどんどん帰っていく。なぜ私たちの迎えは来ないのか。疑問とともに漠然とした怒りが湧いていた。
永遠とも思われる時間が過ぎた後、普段通りの様子の父が私たちを迎えに来た。そんな父に開口一番「遅い」と言葉を投げ、そのまま睨みつけた。「ごめんごめん」と、これまた普段通りの口調の父にいら立ちが膨らむ。私たちを家に送り届けた父は、身をひるがえして職場へ戻っていった。
父は自衛官だった。私はこの時、日本に何が起きているのか全く理解していなかったのである。

日が落ちたころ、疲弊した様子の母が帰宅した。母が帰宅してからは、防寒対策のために家中が慌ただしく動いた。母は私にスノーウェアを着せ、春休み中だった中学生の兄は弟に同じようにスノーウェアを着せた。
停電と断水が始まっていた。石油ストーブを4人で囲み、ストーブの上で沸かしたお湯でスープを飲んだ。夜になっても父は帰ってこなかった。
母と兄は終始張り詰めた空気を醸し出していた。一方で、呑気な私は寒さと余震と暗さにも慣れ、深い睡眠に落ちていった。
翌朝、母と兄が近所のスーパーへ買い出しに行った。その時も私と弟は眠い目をこすりながら非現実的世界をぼんやりと眺めていた。その日の昼頃、父は一旦帰宅したが、またすぐ職場へと帰っていった。

◎          ◎

私が3月11日の惨状を知ったのは電気が復旧してからだった。津波で多くの死者や行方不明者が出ていることを知った。自分の地域はまだ安全だったのだと思い知らされた。
それから間もなく、父の被災地支援の出張が決まった。それを見送り、徐々に生活が戻っていく。暖かい家に温かい食事。父を除いた家族4人での団らんを過ごした。

しばらくそうした日常を過ごしていると、父が帰ってきた。少し疲れているように見えたが、おおよそ普段通りだった。夕飯を家族で囲んでいると、父がまた普段通りぽつぽつと語りだした。被災地での支援のこと、現地の生々しい匂いのこと、被災地支援で精神を病んだ同僚のこと。
あまりにいつも通りに話すので、私は早く話題を奪いたくてしょうがなくなった。今日見たテレビのこと、宿題のこと。
私だって普段どおり話したかった。そんな私を家族はだれも止めなかったし、父もまたいつも通りに耳を傾けてくれた。

◎          ◎

大人になって知る。あの日の悲惨な状況と自衛官としての父の立場。父だって我が子の安否が第一に気になっただろう。誰より早く迎えに来たかっただろう。
父は私の言葉にどれだけ傷ついただろう。家族を置いて被災地へ赴くときはどんな心持ちだっただろう。あの時、父がかけてほしかった言葉は何だろう。
当時より少し歳を重ねた私でさえ、あの時の父の辛さは計り知れない。それとともに、冷静に家族を率いてくれた母への感謝、多くの家族の当たり前を立て直しに行った父を誇りに思う。

お父さん、あの時は「遅い」なんて言ってごめんなさい。本当は、お父さんが校庭に来てくれた時、安心して涙が出そうでした。お父さん、日本のいつも通りを支えてくれていること、本当に誇りに思います。
私のたった一人の尊いお父さん。今度帰省したら、一杯付き合います。