「君は、話さないけれど、書く時は書くんだね」
放課後の音楽室でそう呟いた先生の、呆れたような顔は、胸に深く突き刺さった。そして、その時感じた、言葉にできなかったモヤモヤは、10年以上経った今でも、忘れられない。
中学生の頃、所属していた吹奏楽部での話だ。
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部員はそれぞれに、毎日練習日誌をつけていた。基礎練習の達成度の評価の他に、その日の練習内容について思ったことを詳しく書くスペースがあった。
大勢の中で、他の人に対して話して思いを伝えることが苦手な私は、そこにいかにみっちり思いを書くかということに、日々命を懸けていたと言ってもいい。そんな私に対して、先生は言外に、
「本当は、もっと話して欲しいけれど……」
という感想を持っていたのではないか。あの頃のことを振り返る時、そう思えて仕方ないのだ。
なぜなら、大人になった今でも、同じような悩みを持ち続けているから。
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「円滑なコミュニケーションのために、自分の言葉で話しなさい」
そう、何度となく上司から言われてきた。仕事を始めてからというもの、常について回るのが、報告、連絡、相談だが、そのほとんどはなぜか話すことによるコミュニケーションだ。
相手との関係性、必要な情報、優先順位、話すタイミング、どうやって自分の意見に納得してもらうか。そういった無数の要素を判断して、流れる時間の中で一瞬にして話を組み立て、次から次へと口に出さなければならない。
私には、話すことは、まるでタイムトライアルのゲームのように映る。話すことが得意な人は、何かしらの瞬発力を持っている。それがどこからやってくるのか、私にはわからない。そしてなぜか、きまってそういう人が仕事で成功する。羨ましい。
一方で、文章を書く時には、その時に必要なことを冷静にじっくり考えて構成できる。この差は、何だろう。
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なぜ私が文章を書くかと言えば、自由に息ができるから。話すよりも、思っていることを率直に表現できる余裕を感じるからだ。それは、私にとって、好き嫌いを超えて、生きていくためになくてはならない、水のようなものだ。
もし明日から、仕事でもプライベートでも書くなと言われたら、精神的に耐えられないと思う。
福祉の世界には、合理的配慮という考え方がある。
「障害のある人は、社会の中にあるバリアによって生活しづらい場合があります。この法律では、役所や事業者に対して、障害のある人から、社会の中にあるバリアを取り除くために何らかの対応を必要としているとの意思が伝えられたときに、負担が重すぎない範囲で対応すること(事業者においては、対応に努めること)を求めています」(内閣府のリーフレット『「合理的配慮」を知っていますか?』
簡単に言うと、障害のある人に対して、学校や会社は、できるだけその人が生活しやすいように工夫する必要があるというものだ。
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しかし、日々生活していると、それに近いことがすべての人に対して言えることのように思えてくる。
私が、話すことが苦手で書くことが得意なように、障害の有無に関係なく、人それぞれに得手不得手がある。得意なことを生かして、苦手な部分を補っていくという考え方は、世の中にもっと広がってもいいものだと思う。
すべての人が、笑顔で、円滑なコミュニケーションを図れますように。そして、無理に苦手なことをしなくても生きていけるような、ストレスの少ない社会になりますように。そう、切に願っている。