私には地元の友達が一人しかいない。
いや、本当はもっといるが、都内で働く社会人のアラサーになった今でも連絡を取り合っている、という意味では一人なのだ。
地元で出会った友達が嫌いという訳ではない。大学進学で地元から関東に出てからも、何度か連絡を取り合ったり、帰省のたびに誰かしらに会っていた。
しかし、年齢を重ねるにつれ、私がふるさとに帰る理由に、「地元の友達に会うこと」という項目はなくなっていった。

現在の地元の友達との繋がりは、LINEのグループに属していること、SNSをフォローしていることのいずれかだ。LINEのグループが動くことは滅多にないが、日々眺めているSNSでは、地元の友達の投稿を何かしら目にしてしまう。

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小中学時代の友達は、SNSをフォローしている範囲で見ると、少なくとも半数は結婚したり、出産して育児をしている。素直におめでたいと思える。公立の学校であったため、図らずとも人の多様性というのを感じ取っていたからだ。
成績がいい人、運動が得意な人、苦手なことが多い人、やんちゃな人、裕福な人、貧乏な人……。色々な人がいるから、将来が異なることを分かっていたのだ。たとえば、「◯◯ちゃんが二十歳で結婚した」と聞けば、色恋が多い女の子だったからなぁ、と、△△くんのリア充満載の投稿を見ると、もともと派手好きだもんなぁ、と、納得してしまうのだ。
しかし、ある同級生の結婚報告には動揺した。結婚相手がお金持ちの社長だそうだ。当時成績のよかった私を僻んだり、目の前で私の悪口を言っていた彼女の幸福を、大人になってもどうしても祝えない。

一方、高校時代の友達、特に高校二、三年の同級生だった友達の変化を知った時は、喜びや驚きだけでなく、心の奥底にある感情の起伏が大きくなってしまう。
彼ら/彼女らの一部も、結婚や出産といったライフイベントを迎えているようだ。もちろんおめでたいことで、私も嬉しい。それでも、突っかかりが抜けないのは、彼ら/彼女らは友達であると同時に、同志であったからかもしれない。高校が進学校だったこともあり、私たちは大学進学、特に国公立や難関大学を目指して、高校生活を共にしたのだ。
それぞれが大学に進学して、充実した大学生活を送っていたと思う。しかし、結婚や出産の報告を聞いたり知ったりする度に、なんだか置いていかれた気持ちになるのだ。同志たちが先に進んでしまった、と。高校の卒業文集に「◯組でいい母親になりそうな人一位:継実」と書かれていたから、なおさらだ(そもそも、なぜ私は一位だったのだろう……)。

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私の場合、留学や大学院に進学したこともあり、大学生期間が七年間と、周囲の人よりそこそこ長かった。四年で大学を卒業し、就職先で働き、結婚・出産する。そんな一般的には理想とも言えるライフスタイルをこなしていく友達が、眩しく感じてしまう。
私自身、たとえ人と違っていても後悔のない人生を送っていると自負しているにも拘わらず、友達の変化によって心にぽっかり穴が空いてしまうこともある。私は今まで何をやってきたのだろう、と。

きっと、私のふるさとでは結婚や出産・育児が当たり前で、良いことだという認識が強いからだろう。もちろん、これらのライフイベントは素敵なものではある。しかし、私には程遠い存在なのだ。
年齢を重ねて、不倫やDV、育児放棄といった家庭における社会課題を知ってしまった。決して家族を責めている訳ではないが、様々な要因が重なり機能不全な家庭だったかもしれないと思ってしまった。そして私は、恋愛感情を抱いたことはあるものの、結婚願望を持ったことは一度もない。
そんな私にとって、SNSの「結婚や育児で幸せです」投稿や、地元での「いつ結婚するの?」トークはヘビーで、知らないうちに心に大きなダメージを負ってしまう。

今後、もし同窓会などで旧友と集まる機会があったとして、行くか行かないか。今の私の心境がずっと続くなら、そして、会話の共通項を持てる状態でないならば、きっと答えは一つだろう。