「お赤飯を炊かないとね」
母親が唱える、お祝い事の時に出てくる名前が、私の脳内を冷たく揺らす。
やめて、お兄ちゃんに、生理になったことがバレるから。
パンツのクロッチにかすれて着いた赤茶色の血が、脳裏に焼き付いている。初潮が来ると、学校で妊娠できる身体になるって習った。私の体の、性的な変化を勝手に他人に祝われるのが、酷く屈辱的だった。
やめて、いやだ、って言っても「おめでたいことなんだよ」「そういうしきたりだから」「他の家もやってるよ」と私に言い聞かせて、母親は赤飯を炊きたがった。
私の意思や感情より、形式を優先させようとした母親は、私の敵だと思えた。
トラウマで記憶が失われているのか、結局母親を止めることが出来たのかは覚えてない。
でも赤飯を炊こうとする母親の側で絶望の淵に立ち尽くす自分の感覚は、今も鮮明に思い出せる。
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現代の女性の生涯生理回数は、子供を2人産む場合だと459回で、出産回数の多かった昭和初期の女性の約10倍だという調査結果を見た。
確かに何十年も前とか昔は、産めよ増やせよというスローガンのもと、国全体として初潮は妊娠出来る身体の証であり祝うべきという価値観だったのだと思う。初潮が来たら赤飯を炊いて皆で祝う。
確かに、日本固有の文化かもしれないけど、それって必ずしも継承しなければいけませんか?
私の体の変化は、私だけのもの。
もしかしたら百年前に赤飯を炊かれた女の子の中にも、私と同じように、初潮をおめでたいと感じない当事者が居たかもしれない。
当事者の感情を他者が規定して塗り替えるのは侮辱だ。
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私は11歳くらいで初潮が来たので、132回ほど生理を経験しているが、一度たりともポジティブに思えたことはない。
つまり、132回体調を崩した。初潮は月一の体調不良の始まりだった。
貧血で疲れやすくなり、出血が重い日には頭痛、腹痛が襲いかかる。
朝起きると夢うつつのなかシーツに血がついていないか確認し、血を見ると一気に眠気が覚める。
トイレでもショーツを確認し、血がついていたら落としやすいうちに洗わなければいけない。
椅子に座るたびに血が漏れないか不安だった。部活の試合や水泳、修学旅行、受験、イベントと生理が重ならないことを祈った。
全員が起立して参加を強制される朝会では貧血で吐き気を催して倒れたし、他にも倒れている人が頻発した。
初潮のときに生理を祝った母親は、私が生理痛に苦しむ姿を見てもなお、「生理はおめでたいことなんだよ」などと言うほど鬼ではない。
生理がおめでたかったのは最初の一回だけで、あとは同情的だ。だったら最初から祝わなくていいのに。
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「子供が出来たら、性別はどっちがいい?」
「男の子だったらキャッチボールをして遊びたいし、女の子も可愛くていいな」
ステレオタイプみたいなカップルが私の脳内で会話している。
生理を経験していない人の中には、生理をナプキンのCMで見るような明るくてポジティブなものだと認識している人も居るだろう。
血まみれのレバーみたいな血の塊が、椅子から立つ度に流れ落ちる。「女の子」の正体を知っている私は、この煩わしさを子供に味わわせたいとはあまり思えない。
「女の子」は可愛い。それなら、「女の子」が股からグロテスクに血を流してトイレを赤く染め上げていても、可愛いと言える?
健康の証のせいで毎月体調不良だ。
可愛い娘が毎月貧血でフラつき頭痛薬を飲み必死に学校に行く姿に、「生理は健康の証だよ」って言える?可哀想じゃない?
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「生理はおめでたいとされているから、おめでとう」
私のことを考えて絞り出した言葉では決してない、無機質な言葉。
「健康に育った証だよ」
じゃあ精通した人も健康に育ったおかげで子供を作れるようになる訳だけど、「精通おめでとう」と言って赤飯を炊くのだろうか?
自分の生理がしんどいからといって、母親が閉経した時に母の意思を介在させずに「おめでとう」と言って赤飯を炊き始めたら、不気味だ。
慣習は、慣習さえ守ればいいと、時に人を傲慢にさせてしまうものなのかもしれない。
初潮に赤飯、に限った話ではない。
慣習に則った振る舞いは、本当に自分や目の前の相手にとって相応しいものなのか、立ち止まって考えることを心掛けたい。