井戸端会議が始まると、実家の近所のお年寄りは歳を取るのが嫌だと口をそろえて言う。物忘れがひどくなるかららしい。
確かに私の祖母も言ったことを面白いくらいすぐ忘れる。それにイライラしてしまうこともあるし、なるほど確かに物忘れは嫌かもしれない。
でも、お年寄り達が楽しそうに少女の瞳と笑い声で、こそあど言葉だらけの思い出話に花を咲かせているのを何度も私は見てきた。
私には「忘れる」イコール「悪いこと」とは思えなかった。

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「高校の時、なつめさんがクラスのリーダーで、みんなの名前呼ばないといけなかった時、『敬称略で失礼します』って言ってたでしょ?あの時、俺、やっぱりなつめさん好きだと思った」
恋人が言ってくれたことがあったけれど、私は全く覚えていなかった。

反対に、彼が私にドーナツをくれたことを、彼自身は覚えていなかった。検定に好成績で合格した翌日だった。一緒に学校から帰る途中、しわくちゃのビニール袋を渡された。中にはコンビニのドーナツが入っていた。
「良い成績で合格したって聞いて。頑張ってたし、おめでとうってことで」
プレゼントらしい仰々しさ、特別感が全くなかった。それに私は特別ドーナツが好きというわけでもない。
でも、だからこそ贅沢なパティスリーのスイーツや、アクセサリーなんかよりもそのドーナツの方が嬉しかった。この人は私に嬉しいことがあったらごく自然に、さも当然というかのように心から喜んでくれるんだということが、しわくちゃの袋と100円のドーナツからひしひしと感じられた。

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あれが、彼がくれたプレゼントの中で一番だと言ったら彼はどう思うだろう。
「海が好きな私に」とくれた青いネックレス、「いつも手が冷たいから」とくれた手袋。どれも心がこもっていて嬉しかった。だけどそれを上回ってしまうくらい、あのドーナツは無敵だったのだ。

私の覚えていない私を彼はずっと覚えている。彼が忘れている何気ない出来事や言葉を私は大事に何度も思い返す。
こういうことはもっとたくさんあるに違いない。自分自身は覚えていないからどれだけあるかは知る術がないが、今まで私が辿ってきた軌跡の至る所に、私や私と縁のあった誰かの断片が置き忘れられているような気がした。

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これから歳を重ねれば、未来の私はもっと色んな断片を置き忘れて生きているのだろう。同時に誰かが忘れた断片を大事に持っているのだろう。
それは大切な日々の全てを留めて置けないということのはずなのに、不思議と残念さも悲しさも感じない。

むしろ誰かが私の断片を持ってくれているということを思うと胸が温かくなる。
荷物は一人で抱え込まず誰かと一緒に持とうとよく言う。でも、一緒に持つのは重荷だけでなくていい。
お互いにとって大切なことを分かち合って持つのもいい。どちらかがこっそり持っているのもいい。2人とも曖昧で、話している中でパズルのピースがはまるように思い出すのもいい。

経験したたくさんのことがきれいに積み重なっていなくても、私の断片を誰かが持っていて、その分誰かのを私が持っていると思えば、むしろ忘れた時こそ誰かが私の断片を持っていることを知る良い機会だ。
そう考えると忘れることも、歳を取ることも案外悪くないと私は思うのだ。