いじめっ子にいじめの自覚はあるか。
これが、N君とのその夜の議題だった。
またいつものように電話で話しているときのことだった。私は自覚がある場合もあると主張し、彼は本人には絶対ないと主張した。
彼の主張をまとめるとこうだ。
自分の言動をいじめだと自覚した人は、いじめをしない。自覚がないからひどいことが、相手が嫌がることができる。
でも私は、私が解釈した限りでは「絶対に」という部分に納得ができなかった。
確かに自覚していない人もいるはずだ。でも、その一方で自覚があるのにその行為を続ける人、自覚があるからこそそれをする人も確かにいると私は考えている。
それを言うと「そうだとしたらその人たち悪すぎじゃない?」彼が言う。確かにそうだ。嫌がることを分かってやるなんて。
でも少しだけ、捻くれた考え方をするなら、その人は根っこのところではいい人なのではとも思う。
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中学生の頃、私はクラスでいじめのようなものを受けていたと思う。断言できないのは、私の心が折られなかったからだ。やった側に悪意がなくても、された側が嫌な気持ちになったらアウトと言うように、いじめは基本、被害者目線で捉えられる。
でも被害者であるはずの私は、自分が被害者であることを認めない努力をしていた。いじめに屈することは、私が間違っていると思っていることを受け入れることのように思えたからだ。
私は良くも悪くも、正しいと思ったことは考えを曲げない性格だから、意地でも学校に行き続け、さらに上位の成績を取ることでクラスの中での立ち位置を確立させようとした。そうすることで私の考える正しさを貫こうとした。
当時は、すれ違えばニヤニヤと卑下た笑い声を立てられることも、ものを投げられることも、何人も違う人が一言一句同じ言葉で私を傷つけようとすることも、全てが面倒くさくて、不自由だった。あからさまに示し合わせたような文句ではなく、せめてもう少し気の利いた悪口でも言えないのかと思った。放っておいてくれと願っていた。
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大学生になった今、私はそうしたしがらみから解放された。むしろあのときの鬱陶しさを懐かしみもする。今、私がそれとは対極にあるものにぶち当たっているからだ。無関心である。
大学生にもなればみんな、精神的に中学生の頃よりは成長している。自分と合わない人とは付き合わなければいい。無視すればいい。自分と合わないその一人を自分の人生から排除したところで、大したダメージはない。わざわざ悪口を言うなんて面倒くさい。そう考える人が多い。
ずっと憧れとは違う夢だった薬剤師になるべく、薬学部に進学した。周りには私と理由や背景、プロセスは違えど、おおよそが目下の目標として薬剤師になることを掲げた仲間だと思っていた。
でも、違った。入学して話すようになった人に薬学部に進学した理由を聞いても、目を輝かせて活き活きと話す人には出会えない。親が薬剤師だから。それはきっかけにすぎない。給料がいいから。なんとなく。それらは薬剤師でなければならない理由ではない。
仮にも人の命を預かる仕事で国家試験を必要とする仕事なのに、1年目はこんなものか。
私は周りとのギャップに落胆し、また周りも私を面倒な奴だと認識したに違いない。
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いやよいやよも好きのうちというが、本当にそうだなと思う。いじめるのはその人に関心を抱いているからなのだと。
だからといっていじめを肯定することなんてしないけれど、こと私の場合においては、あの時闘争心を燃やして勉強に力を入れたおかげで今、この場所にいるのかもしれないと思う時がある。そして、この場所で今、私は無関心という戦いようのない相手に苦戦を強いられている。
夢には近いけれど、夢という理想のメッキが剥がれかけたここで、私はどう生き延びてやろうか。