たとえば、業務委託ライターの面接を受けたとき。
「ライターとしてどうステップアップしていくことをお考えですか?」

たとえば、夫から将来について聞かれたとき。
「どんな30代になりたい?どう過ごしていたい?」

たとえば、かつて通っていたキャリアスクールで定期的に自分の歩みを見つめ直そうとしたとき。
そのとき目の前のPC画面に映し出されていたのは、1ヶ月ごとの目標設定ワークシートや「こうありたい」という1年後の理想の自分を言語化するドリームマップ。

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いつだって私は、自分の未来を想像することがへたっぴだった。
面接官の前では言葉に詰まり、夫に対しては「何だろうね〜」とへらりと笑い、PC画面とは数分間にらめっこ。
視界には常に靄(もや)がかかっているような気がした。もういい年した大人なのに、と曖昧な自分が時折情けなくなる。
夢へ向かって地に足つけて突き進んでいく人を見るたび、その力強い足取りに気圧されてしまう。挙げ句の果てには「どうせ私なんて」と自己否定。勝手に比べて、勝手に自滅して。そんなことばかり繰り返してきた。

でも、ひとつだけはっきりとした「未来の私」をイメージとして抱いている。
視界を覆う靄の中で、唯一輪郭が伴ったもの。堂々と言葉にできるもの。

「おじいちゃんおばあちゃんになっても、手を繋いで歩く夫婦でありたい」
夢、と呼ぶにはささやかすぎるかもしれない。その程度?何それ?と笑われるかもしれない。
30代、という近い将来は上手く思い描けなかったけれど、そこを飛び越えた数十年先の遠い未来に、私はよく思いを馳せてしまう。

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かつては、長生きなんてしなくていいと思っていた。
30歳、40歳くらいまで生きられたらもう十分だと思っていた。

でも、結婚をし、「この人とこれからずっと一緒に生きていくんだ」という実感がじわじわと湧いてきたことで、自分の未来に対する考え方が少し変わった。

いつだか外を歩いているときにすれ違った、自分の祖父母くらいの年齢のご夫婦。
互いの手を取って、ゆっくり、ゆっくり歩幅を揃えているその姿を見たとき、「こんな風に年を重ねていきたい」と強く思った。感動にも似た、静かな波が心に押し寄せてきた。

またうれしいのが、この願いが夫とほぼ一致しているということだ。
「ふたりでのんびり暮らして、のんびりお散歩したいよね。これから先も、手を繋いで」
そんな夫の言葉に、私は深く共感した。この人と結婚してよかった、と心から思った。

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夫は、よく同じ夢を見るらしい。
ここでの「夢」とは、未来に対して抱くものではなく、眠っているときに浮かび上がる映像のほう。

真っ白な光の中、数メートル前方に私がいる。後ろを歩く夫が、私の名前を呼ぶ。呼びかけられた私は、背後を振り返る。
「もう、遅いよ!早く!」
おいでおいでと手招きした私と、小走りで駆け寄ってきた夫とが、どちらからともなく手を繋ぐ。
そのまま、光の中をふたりで歩いていくらしい。

何度か見ているというこの夢は、夫曰く「たぶん死後の世界」。
その話を聞いて、私は決して悲しい気持ちにはならなかった。むしろたまらなく嬉しくて、幸せで、涙が流れた。

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近所のスーパーへ行くにしろ、ラーメン屋さんへ行くにしろ、どこへ行くにも私たちは必ず手を繋ぐ。
冬場は、繋いだ手をどちらかのコートのポケットにぐいっと入れ込む。冷えた空気から守られたそこは、誰にも見えないちっぽけな空間ではあるけれど、お互いの体温が伝わってとてもあたたかい。
その温もりを、これから先もずっと守っていきたい。
そして、夫がよく見るという夢を、正夢にしたいとも思う。

遠い未来がほんのりとでも見えていれば、それは明日への1歩を踏み出す力に繋がる。
たとえ苦しい状況に置かれることがあったとしても、あなたと並んで手を繋いでいれば、きっと、大丈夫。
そうやって、1日1日を大事に積み重ねていきたい。

ささやかでも、立派じゃなくても、自分が幸せであるのならそれでいいのだ。