いつからか私はピンクが嫌いだった。
履いていると動きづらいスカートも嫌い。
優しく微笑んで、人の話を聞くだけという役割も嫌い。
今振り返ってみると、子供の頃から、私は「女の子らしい」「かわいらしい」に代表されるものや行動に拒否感をもって生きてきたようだ。
私は黄色が好きで、ピンクが嫌いだ
小さい頃は、よく好きな色を聞かれる。そのとき、私は必ず「黄色」と答えていた。
なぜなら、見ていると気持ちが明るくなるような色だから。女の子に人気の色であるピンクは、幼い私には別に魅力的でなかった。
そんな感じで生きていたから、「女の子らしくないね」と言われることも多かった。私はそれでもいいと思っていたし、今も思っている。ただ、最近、その女らしさに対する拒否感が自分を生きづらくしていることがあるのではないかと思うことがある。
私は、ピンクもスカートも嫌いだけど、実は、ヒールやロングの髪型は好き。友達と遊びに行く時は、メイクにだって時間をかけたい。
人の話を聞くだけなのは嫌だけど、人の話を聞くこと自体は好きだし、相手が話しているときは、気持ちよく話していてほしいと思う。だから、わからないことがあれば「教えてほしい」と言うし、話の内容に感銘を受けたら「すごい」と言う。
私は社会の「女性らしさ」から自由なのか
そんな自分の行動が、「女性らしさ」や「求められる女性の行動」に当てはまるように見えるとき、自分がとてつもなく嫌になる。例えば、ヒールを履いて帰宅しているとき。「長時間履いていたら、足が痛くなることは分かっているのに、なんで履いてるんだろう」と。単純にその日はヒールが履きたい気分で、わくわくする気持ちで、ヒールを履いて外出しただけなのに。
話している相手が、いわゆる男性(性別を二分することはあまり賛成でないけれど)で、そのときに自分が、相手に対して「すごい」と何度もいっているとき。「男性の自尊心をくすぐるために、過度に褒めているのではないか」と。単純に相手の話の中身が価値あるものだと思っているということを表現したいから、そうしているだけなはずなのに。
ジェンダー規範から逃れようとすればするほど、その規範を強く意識することになる。私の好みや行動が、社会のジェンダー規範を内面化した結果なのか、単純に自分の「好き」や「そうしたい」という感覚に基づいたものなのか、最近どんどん分からなくなる。もちろん、どんなことに対しても、自分の好き嫌いが、社会の規範から自由であるとは言えないけれど。
私は自分自身の感覚で、「好き」を、表現したい
自分の好みや行動に考えを巡らす日々。別にこんなこと考えなくても、何も問題なしに、ハッピーに生きられるけど、そんなことを考えてしまうのが私の性格。もしかしたら、多くの人もそうかもしれない。私は、こんな自分の考えすぎてしまう性格も別に嫌いではない。ただ、考え始めなければ、生まれなかったはずの、生きづらさを日々感じているのは確か。それに対してはもやもやすることもある。
幼い頃の私が黄色が好きだったように、あくまで自分が違和感を感じない程度に、自由に何かを好きでいて、表現することは今後できるのだろうか。できるかはわからないけど、「ピンクが嫌い」であることよりも、「黄色が好き」という感覚を大切にしたい。その「好き」という感覚を、なんの後ろめたさなしに、自由に表現できるようになりたい。