「いやぁ~、こうやって改めて見ると、本当にきれいになったなぁと思います。感動しますね」
いずれ戻るであろう「素顔の日々」に向けて始めた歯列矯正。綺麗な歯並びになったら手で口を隠すことなく笑いたい。そして、自分に自信をもって言いたいことをはっきりと言えるようになりたい。そう願い、マスクで口元が隠せる今がラストチャンスだと始めた。

◎          ◎

実は歯列矯正は今回が2回目で、過去の経験から、日々の管理が面倒くさく、また器具を変えるタイミングで痛みを感じやすいことはわかっていた。だから、先程の目標を持つことで前向きに続けられるよう心がけた。

開始から約2年、歯列矯正が終わって初めての経過観察で、歯科衛生士にお願いして再度矯正前後の写真を見せてもらった。
出っ張っていた右上前歯は引っ込み、前後にガタガタしていた下の歯4本は綺麗に揃った。まだ嚙み合わせで怪しい箇所があるが、歯並び自体はかなり綺麗になった。

これでマスク無し生活でも自信をもって笑える。自分の言いたいことが言えるようになる。
そう思い、胸が膨らんだ。

実際、ある程度歯並びが揃ってきたころから、食事の時などマスクを外して話をする際、以前ほど手で口元を隠さなくなった。また、職場でも自分の気持ちや考えを上司や同僚たちに伝えられるようになってきたと感じる。後者に関しては、年齢を重ねたということもあるかもしれないが……。

マスクを着用する義務がなくなり、「素顔」で過ごす日々に戻った後もこうありたいと思う。それは、通っているジムにいる付きまといおっさんたちに対してもだ。

◎          ◎

ストレッチをするエリアから、1番遠いチェストプレスのマシンに向かう。「付きまといおっさん①」から逃れるためだ。もう少しほぐしたい箇所があったのに……。
非常に困ったことに、付きまといおっさんは複数いる。そのため、移動先にも付きまといおっさん②や③がいる可能性はある。今日は運よくいなかった。

チェストプレスを始めて2、3分後、再び奴が来た。さっきストレッチを始めたばかりじゃないのか。何をしに来ているのか。

奴への不満を、マスク下でつぶやく。
「きもい」
「うぜぇ」

これだけじゃ奴らへの憤懣やるかたない気持ちは発散されないため、心の中でさらにボロクソに言う。
「いい歳過ぎた奴が、気になる人に話しかけることもできないなんて。ほんとちっせぇ奴」と。欲しいものを指咥えてじっと見てたら手に入る年齢はとっくに過ぎている。何十年前の話だ、と。

◎          ◎

おっさんだけじゃない。女の勘的に「意識的に見ている」と感じる20代そこそこの青年たちもいて、彼らにも言いたいことは山ほどある。自意識過剰だと言う人もいるだろうが、たまたま目が合う人とそうでない人の違いくらいわかる。

その青年たちに試しにやってみる。私が、おっさんたちの付きまといに大げさなため息をついたり、マシンの調整の仕方がわからず誰か知っている人がいないか周囲をキョロキョロしてみたり、といったそぶりを。

すると、なんと彼らは何もしないのだ。見ているから気づいているはずなのに、何もしない。
「男ってほんとにみんなちっさい。でかいのは図体や態度だけか」
マスク下でそう嘲笑う。彼らの前を通ると、自分の胸筋を見せつけるように胸を張ったり、Tシャツの袖をまくって上腕を出したりするのに。
下心を抱いた男って、滑稽だ。小学生、中学生なら微笑ましい光景だが、社会人になっても何もできないって、笑える。中年おっさんだと、かわいそうとすら思う。

◎          ◎

私はよく「ぼーっとしている」とか「はっきりものを言わないゆるい人」というようなことを言われる。目が二重で、顔が丸顔ということもあるのか、何をしても許されると思われているのかもしれない。私だって人間だ。嫌な思いをしたら、ダークな部分が出てくる。
しかし、ふと思った。あれ、綺麗な歯並びになったら言いたいことって、こういうことなのか?と。ダークな気持ちをそのままストレートに伝えたら、自分はすっきりするのか、と。
今まで気がつかなかったが、これまで自分が抱いてきた奴らへの不満に、「やめてほしいこと」が含まれていなかったと。自分の憤懣だけだったと。

チェストプレスの椅子から降り、マスクを外す。深呼吸をして水を飲む。
「よし、マスク着用の義務がなくなったら、はっきり言おう。付きまといをやめてくれ、と。それとも私に何か用があるのか、と」

素顔で、あれこれ鬱憤をぶちまけるのではなく、1番言いたいことを素直に。好きなことをして、綺麗な歯を出して笑うために。