私には推しがいる。

界隈は様々だが、どの推しもかけがえのない存在で日々癒されている。そんな生活を送る私だが、実は恋愛をしたことがない。推しに恋愛感情を抱くリアコと呼ばれるファンではないのにも関わらず、何故このようなことが起こるのか……。突然だが、この二つの関連性についての話をしたい。

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推しの一人である父親と同年齢の男性歌手は去年の今頃からファンになり、ライブではペンライトを振ってオタク活動をしている。次の現場も決まっているので、楽しみは尽きない。隣国のアイドルや声優、同性愛を描いた作品なども好きなので、充実した尊さのおかげで私の生活は成り立っている。
この文言だけあれば、推しを応援する幸せなファンという人間像が思い浮かびそうだが、文章の始まりにある唐突なカミングアウトを説明するために、この文章を書かなくてはいけない。

オタクという性質の反面で、避けては通れない現実が私にはある。それは25歳という年齢で恋愛経験が一つもないということだ。
性的マイノリティーなのか、個性なのかは不明だが自身の性別を公言したくなかったり、自分を女であると表現することに抵抗がある。雨女を雨人間と言い換えることは当然のことで、ネット用語でモテない女性を喪女と言うらしいが、それだったら喪人間というのが適当であろう。衣服も女性らしさを削いだものを好み、女っぽさというものを嫌う。

自分の中でこの問題というのは焦りの観点から由々しき事態だと把握している。相当こじらせている人間であることは自認しているが、今現在の感情で率直に言ってしまうと、恋愛そのものにさほど興味が湧かない人間である私は、この歳になっても能動的に働きかけをしたことがない。
昔からこじらせるのが得意な性分なようで、同年代の知人や友達もいないため、肌感覚で同年代の動向を知ることはない。焦燥感は少なからずあるものの、25年という年月を以ってしても人との接触を遮断していると、当然交友関係は築かれない。よって周囲に誰もいないというのは自然な現象である。

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恋はするものではなく落ちるもの!という言葉があるそうだが、私のような人間には創作にしか聞こえず、非現実的で縁遠いものだと感じる。

告白や恋愛感情を抱く場面というのは、経験する以前に漫画でしか見たことがない。浮いた話すら出来ない私は、応援する人の期待を裏切らないスーパーアイドルのような素質があるのかもしれない!と錯覚に陥ってしまう今日この頃。甘酸っぱい話も一切ないので、ピュレグミが恋の味と言うならば、私の人生は涙の味である。
グミに先を越されてしまう現状、これこそが酸いも甘いも嚙み分けたことになってしまうという皮肉満載の人生を今日も送っている。

普段は推しの歌手が届けてくれる甘い歌声と歌詞を聴きながら、二次元・三次元問わず様々な媒体から糖分を摂取し活力にしている。
「尊い」栄養を補給することで、脳内には幸せ物質が充溢していると思うし、あとは気分が向いたときに光合成でもしていれば何も不満はない。冗談と本気の区別もつかない、そんな自分を救ってあげたくても、おそらく手遅れだと思う。

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しかし「このままでいいのだろうか?」と健全な自問自答をすることもある。
推しばかりに熱量を注ぐ一方で、自分の人生はなんだか投げやりになっており、他人ばかり追いかけている現状。

果たして、その人生の主役というのは誰なのか。投げやりという気分が惰性に含まれるなら、少なからず一番目立つポジションは自分ではないだろう。様々な推しの甜言蜜語に酔いしれる今の私が、傍観者という一言で終わってしまうのならこれは勿体ないことである。しかし自分に干渉しない、言わば脇役の生活が性に合っているからこそ、今まで継続しているのだと思うとなかなか難しい問題である。

「推しの声優が攻め役として受けに畳みかけるこのシーンで、私が襖になれればありがたき幸せ……」
おそらく自分は死ぬまでこんな戯言を言いながら生活し、こんなことを言いながら死んでいくのだろう。と四半世紀を生きてきて、そう思う。

容易にこの情景が想像出来てしまうことは残念だが、お肌の曲がり角や膝を曲げた時の鈍い痛みで着実に老いを受け入れている毎日。年齢に対する自負があったのはもう何年も前の話で、気付けば何事も未経験のままアラサーの仲間入りである。孫の顔を見せるどころか、相手を誰も紹介できないことを両親には申し訳ないとも思うが、私には人と人とがどこで巡り会うのか、それすら分からないのである。

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結論、今は推しがいてくれれば概ね満足なので「好きだけど……」から始まる躊躇いは自分自身の焦りから少しはあるものの、「好きだから……」変わらずこれからも応援したい。仮に人生の主役を推しに明け渡しているのだとしても、オタク冥利に尽きる幸せな人生だと言えるだろう。
苛烈な現実を中和するためのオタ活で、更に現実を見なくてはいけないなんて誠に遺憾であるが、多少の切なさと共存することでより深みを増すと信じている。

しかし本音を言ってしまえばキリがない。
やはり恋愛に対する未練や羨望があるのにも関わらず、諦めてしまっていることには名残惜しさを感じるが、焦っても仕方のないことである。しかしあまりにもこの現状で満足しているので、これからの人生の難易度は上がる一方という釘を一応、自分に刺しておく。

満足感から来る危機感がいかに恐ろしいものなのか、試験の正解率のように難化・易化するといった動きは今後は見られないので、今が一番若いのだから……ということは忘れないようにしたい。

誰のものにもなれない私が、もう既に誰かのものになっている推しを応援する。
切ないようだが、これがプロアイドルの精神で生きている私の人生である。