幸運な出来事、皆さんは小学6年生の頃中学生になるということをどのように捉えていただろうか。中学校は、受験をするという選択をしない限り無試験で入学できる所であり、受験をしない生徒は小学生のうちは友人と遊んで過ごすことが多いだろう。
しかしながら生活は大きく変わり、みな少なからず入学に不安を覚える。上級生を先輩と呼び敬語を使わなくてはならないこと、通学が徒歩から自転車になること、制服の着用が求められること・・・・・・。人生で最も大きな生活ギャップを迎える時期と言っても過言ではないほどそのライフスタイルの変化は大きいものである。
では、田舎の公立中学において最も大きな変化は何だろう。最近全員加入制の緩和やゆる部活の導入により状況は変わってきているが、一番の変化と言えば、部活動が始まることではないだろうか。
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私が中学生だった2000年代中盤、私の中学校は部活動が全員加入制で、原則としてその活動の全てに参加することが求められていた。活動内容が正確に定められていない一つの部活を除いては下校時刻まで活動し、土日の活動や大会への参加も求められる。これまで地元の中学に通う多くの小学生にとって放課後は近所の同級生と遊ぶことが恒例であることから、生活形態は大きく変わる。
実際親御さんからも「中学生になると部活で本当に遊べなくなる」、「部活が厳しい」という声を多く聞いていた。それに伴い小学生のように大勢で公園で遊ぶ遊びから親友と近場のショッピングモールでお金を使って遊ぶ遊びへと変容し、遊び相手はいなくなった。親しい友人はおらず、生活様式の大きな変容に伴い誰の支援も得られないまま一人で中1ギャップを乗り越えなくてはならなかった。
睡眠不足が重なり授業中に寝てしまうことも多く、成績は低迷した。小学生の頃は歴史や文学に関心があり、そういった研究会か百人一首部に入りたかったが、私の中学校には存在しない活動であった。
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卓球部に入部後は1年生は台に付くことができず、先輩を横目に素振りや筋肉トレーニングを行うが、これまた周囲に後れを取ってしまい、よく先輩には注意をされていた。両親にも辞めてしまえばいいと何度も言われていたが、一度入部したものを辞めるのは忍耐力がないようで嫌だった。
かといって活動が楽しかったわけでもなく、3年生が引退し、卓球台に付けるようになってからは私を含めた同期の女子部員の全員が言われるがままに不本意な練習をしていた。気持ちは態度に表れ、大会前に早く集合すると男子が練習をしている横目で私たちは部室でおしゃべりをしていた。
怒られるのではないかという不安もあったが言うことができずに案の定顧問教師に怒られてしまった。団結意識がないことからいじめも絶えず、全員加入制であるにもかかわらず中途退部が相次いだ。学年全体で見ても半数以上は卓球部の女子が占めていた。私自身もプレー自体には途中で関心がなくなってしまった。
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そんな私が関心を持ったのは、県大会に出場する強豪校や上位入賞者についてだった。決して強豪校に入って強くなりたいわけでも、選手に恋をしているわけでもない。私が関心を抱いたのは、選手たちの私生活、指導方法等の社会的側面であった。
強豪校は学校が強化するケースとクラブチームが強化するケースとがあり、前者は礼儀作法から指導するが後者は技術的側面しか指導せずに教員からの評判はイマイチである。県大会に行けば強豪校の団体戦を観察し、その両者の比較をする。新年度になれば高校生大会の結果を見て、強豪選手の進学先を把握する。
同じ実力でも、この人は卓球一本で、この人は学業との両立を図る。引退時期は学業優先か否かによって異なる。そんな比較をするのが楽しかった。しかし当時はこれが学業として成立するか分からず、なんて無意味なものに関心を抱いているのだろうと思っていた。
実際中学校卒業後は卓球と縁を切り、選手の進学先を把握するくらいはしていたが、大会に出向いて試合を見ることはなくなりそれから何年も部活動とは遠ざかっていた。大学の卒業論文では教育社会学のお家芸である高校生の進路形成を扱ったが、自分が苦労しなかっただけに教養を深めている感覚に過ぎなかった。
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そんな私が再び部活動に意識を向けたのは、大学院生になってからだった。不本意な練習、相次ぐ中途退部、部活動は問題が山積みであった。私は学部生時代に研究していた蓄積を捨て、院生になり一から部活動研究を始めた。
私自身が当事者であった本研究はやりがいがあり、使命感もあった。卒論の5倍ほどの労力を要したが、納得いく研究をすることができた。現職の公務員になった理由も部活動の運営に携わるためであり、実際そのために論文や施策を読み続けている途中である。
中学生の頃、あれほど負担に感じていた不本意の練習であったが、今は一度口を開くと止まらないほど部活動の話が好きである。10年以上の時を経て、不運が幸運へと変わり、私の元へと降りてきた。いや、不運を幸運に変えたのは、私自身かもしれない。